ゾウの時間、私の時間

主に読書のメモになります。音声入力なので誤字脱字が多そう。

【読書メモ】嫌われる勇気

嫌われる勇気を読んだので、メモに残そうと思います。
 

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

  • 世界が複雑なのではなく、ひとえにあなたが世界よ複雑なものとしているのです。人は誰しも客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味付けを施した主観的な世界に住んでいます。
  • あなた自身が変われば世界はシンプルな姿を取り戻します。問題は世界がどうなるかではなく、あなたがどうあるかなのです。
  • もしかするとあなたは、サングラス越しに世界を見ているのかもしれない。そこから見える世界が暗くなるのは当然です。あなたにはそのサングラスを外すことができるか?世界を直視することができるのか?あなたの勇気があるかです。
 
なぜ人は変われるのか
 
  • 過去の原因にばかり目を向けて、原因だけで物事を説明しようとすると、話はおのずと決定論に行き着きます。すなわち我々の現在、そして未来は全て過去の出来事によって決定済みであり、動かしようのないものであること。過去など関係ない、それがアドラー心理学の立場。
  • アドラー心理学では、過去の原因ではなく今の目的を考える。
  • ほとんどの人は目的論ではなく、原因論で考えている。原因論の住人であり続ける限り、前に進めることができない。
  • アドラー心理学ではトラウマを明確に否定する。いかなる経験もそれ自体では成功の要因でも失敗の原因でもない。経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。
  • 過去が全てを決定し、過去は変えられないのであれば、今日生きる我々は人生に対して何ら有効な手立てを受けなくなってしまう。トラウマの議論に代表されるフロイト的な原因論とは、形を変えた決定論であり、ニヒリズムの入り口なのです。
  • 答えとは、誰かに教えてもらうものではなく、自らの手で導き出していくべきもの。他社から与えられた答えは所詮対症療法にすぎず、何の価値もありません。
  • 自分自身を愛することができていない。そして自分を愛するための手段として、別人へのの生まれ変わりを望んでいる。
  • 大切なのは何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかであるとアドラーは言います。別人へのの生まれ変わりを望んでいるのは、その人に何が与えられているのかばかりに注目しているから。そうではなく与えられたものをどう使うかに注目する。
  • あなたの人生のどこかの段階で、不幸であることを選ばれた。それは、あなたが不幸の境遇に生まれてからでも、不幸な状況におちいったからでもありません。不幸であることがご自身にとっての「善」だと判断した、ということなのです。
  • アドラー心理学では、性格や気質のことをライフスタイルと言う言葉で説明する。人生における思考や行動の傾向のことです。そしてアドラー心理学ではライフスタイルは自ら選び取るものだと考える。
  • アドラー心理学では、およそ10歳前後にライフスタイルを選び取ったと考える。だから、ライフスタイルが先天的に与えられたのではなく、自分で選んだものであるのなら、再び自分で選び直すことも可能だと考える。
  • 自分の生まれた場所を選ぶこともできないし、時代も選べない両親も選べない、ほぼ全てのものは自分で選んだものではない、しかしそれらが自分に与える影響は大きい。でもそこで終わってはいけない。問題なのは過去ではなく現在のここにあるのです。
  • 人はいつでもどんな環境に置かれても変わることができる。あなたが変わらないのは、自らに対して「変わらない」と言う決心をしているから。
  • アドラー心理学は勇気の心理学です。あなたが不幸なのは過去や環境のせいではありません。あなたの能力が足りないのでもない。あなたはただ勇気が足りない。幸せになる勇気が足りていない。
 
第二夜 全ての悩みは対人関係
 
  • 短所ばかりが目についてしまうのはあなたが自分を好きにならないでおこうと決心しているからです。自分を好きにならないと言う目的を達成するために、長所を見ないで短所だけに注目しているのです。
  • 我々を苦しめる劣等感は、客観的な事実ではなく、主観的な解釈なのだ。
 
言い訳としての劣等コンプレックス
 
  • 人は無力な存在としてこの世に生を受ける。その無力な状態から出したいと願う普遍的な欲求を持っている。アドラーはこれを優越性の追求と呼んだ。簡単に言えば向上したいと願う気持ちのことである。
  • この優越性の追求の対をなすのが劣等感。理想に到達できない自分に対してまるで劣っているかのような感覚を抱くこと。近しいこの劣等感が悪いと言うわけではなく、劣等感の使い方さえ間違えなければ、努力や成長の促進剤となる。
  • しかし劣等感にコンプレックスを持つこと、アドラー曰く劣等コンプレックスとは、自らの劣等感をある種の言い訳に使い始めた状態のことを指す。何何だから、なになにできない。本来なら因果関係がないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らに説明し納得させることを、アドラーは見かけの因果律と呼んだ。
  • 劣等コンプレックスの持つもう一つの側面に、〇〇だから〇〇できないと言っている人は、〇〇さえなければ私は有能であり価値があるのだと暗示している。
  • 健全な劣等感とは、他者との比較の中で生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるもの。
  • 我々が歩くのは他の誰かと競争するためではない。今の自分よりも前に進もうとすることにこそ価値がある。
  • 親から虐待を受けた子供が非行に走る。不登校になる、リストカットなどの自傷行為に走る。フロイト的な原因論では、これを「親がこんな育て方をしたから、子供がこんな風に育った」とシンプルな因果律で考えるでしょう。しかしアドラー的な目的論は、子供が隠し持っている目的、すなわち親への復讐と言う目的を見逃しません。親を困らせたいが為に、問題行動に子供は出るのだ。過去の家庭環境につき動かされているのではなく、今の目的、つまり親の復讐を叶えるために。
 
非を認める事は負けじゃない
 
  • 怒りをコントロールするとは我慢することではない。怒りと言う感情を使わないで済む方法を学びましょう。怒りとは所詮、目的を叶えるための手段であり、道具なのですから。
  • 人は、対人関係の中で「私は正しいのだ」と確信した瞬間に、すでに権力争いに足を踏み入れている。すなわち相手が間違っていると思った時点で、議論の焦点は、主張の正しさから、対人関係のあり方へと移っている。
  • 主張の正しさは、勝ち負けとは関係がない。あなたが正しいと思うのなら他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話。
 
人生の嘘から目をそらすな
 
  • 〇〇と言う人物のことを嫌っているとします。なぜなら〇〇さんには許しがたい欠点があるからだ。しかしそれは〇〇さんの欠点が許さないから嫌っているのではありません。あなたは〇〇さんのことを嫌いになると言う目的が先にあって、その目的にかなった欠点を後から見つけ出している。
 
第三夜 他者の課題を切り捨てる
 
  • 承認欲求の危うさはここにある。適切な行動とったら褒めてもらえる、不適切な行動をとったら罰せられる。こういった賞罰による教育をアドラーは否定した。賞罰教育の先に生まれるのは、褒める人がいなければ適切な行動しない、罰する人がいなければ不適切な行動をとる、と言う誤ったライフスタイルです。
  • 他者の期待を満たすためにわれわれは生きているのでは無い。ユダヤ教にこんな教えがあります。自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、一体誰が自分のために生きてくれるだろうか。
  • 他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになる。
 
課題の分離とは何か
 
  • 目の前に勉強すると言う課題があった時、アドラー心理学では「これは誰の課題なのか?」と言う観点から考えを進めていきます。子供が勉強するのかしないのか、あるいは友達と遊びに行くのか行かないのかは子供の課題であって、親の課題ではありません。勉強する事は子供の課題なので、そこに対して親が勉強しなさいと命じるのは、他社の課題に対していわば土足で踏み込むような行為。だから自分の課題と他社の課題を分離していく必要がある。
  • あらゆる対人関係のトラブルは、他社の課題に土足で踏み込むこと、あるいは自分の課題に土足で踏み込まれることによって引き起こされます。
  • 誰の課題かを見分ける方法はシンプル。その選択によってもたらされる結末を、最終的に引き受けるのは誰か?を考えれば良いだけ。子供が勉強しないと言う選択をした時、その決断によってもたらされる結果を最終的に引き受けなければならないのは親ではなく子。
  • しかしここでは注意が必要。アドラー心理学放任主義を推奨するものではありません。本人とは、子供が何をしているのか知らないが知ろうともしないと言う態度です。そうではなくて、子供が何をしているのかを知った上で見守ること。勉強について言えば、それが本人の課題であることを伝え、もし本人が勉強したいと思ったときにはいつでも援助する用意があることを伝えておく。しかし子供の課題に土足で足を踏み込む事はしない。頼まれもしないのにあれこれ口出ししてはいけない。
  • アドラ心理学のカウンセリングでは、相談者が変わるか変わらないかはカウンセラーの課題では無いと考える。ある国に「馬を水辺に連れて行く事はできるが、水を飲ませることができない」という諺があります。アドラー心理学におけるカウンセリングもそーゆースタンス。
  • カウンセラーは相談者の人生を変えてくれない。自分を変えることができるのは自分しかいません。
  • 他社の課題には介入せず、自分の課題には誰1人として介入させない。これは具体的でなおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点になります。
  • 生地の場面で、子供がなかなか靴の紐結べずにいる。急いでいるので、母親が結んであげる。それは介入であり、子供の課題を取り上げてしまっている。それが繰り返された結果、子供は何も学ばなくなり、人生のタスクに立ち向かう勇気がくじかれることになる。アドラーは言います。「こんなに直面することを教えられなかった子供たちは、あらゆる困難を避けようとするだろう」。
  • 対人関係から解放されることを求め対人関係からの自由を求めている。しかし宇宙にただ1人で生きることなど絶対にできない。すなわち自由とは、他社から嫌われることである。あなたが誰かに嫌われていると言うこと、それはあなたが自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針に従って生きていることのしるしなのです。
  • 自由とは組織からの解放だと思っているかもしれません家庭や家族、会社や効果などから飛び出すことが自由なのだと。しかしたとえ組織をとびだしたところで本当の自由は得られません。他者の評価を気にかけず、他社から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことができない。つまり自由にはなれない。だから嫌われることを恐れるな。
  • 嫌われたくないと願うのは私の課題かもしれませんが、私のことを嫌うかどうかは他社の課題です。私をよく思わない人がいたとしても、そこに介入することができません。無論、先に紹介したこと嫌われたくないと願うのは私の課題かもしれませんが、私のことを嫌うかどうかは他社の課題です。私をよく思わない人がいたとしても、そこに介入することができません。無論、先に紹介した諺で言うなら、馬を水辺に連れて行くところまでの努力はするでしょう。しかしそこで水を飲むか飲まないかはその人の課題なのです。
 
第四夜 世界の中心はどこにあるか
 
  • 課題を分離することは、対人関係の出発点で、対人関係のゴールは共同体感覚を持つこと。共同体感覚とは、他者を仲間だとみなし、そこに自分の居場所があると感じられることをいう。
  • 自分が世界の中心に捉える人は、あらゆる他者は「私のために何かをしてくれる人」と考える。しかし自分を世界の中心と捉えず、「私はこの人に何を与えられるか?」を考えることが、共同体へのコミットになる。所属感とは、生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得していくもの。
  • アドラーの言う共同体とは、家庭や会社のように目に見えるものだけではなく、目に見えないつながりまで含んでいる。大切な事は、今所属している共同体に注目するだけでなく、もっと別の共同体があることを、もっと大きな共同体があることを知ること。
 
叱ってはいけない、褒めてもいけない
 
  • アドラー心理学の立場は、褒めてはいけないし、叱ってもいけない。褒めるという行為は、能力のある人が能力のない人にくだす評価と言う側面が含まれている。
  • 他者を褒めたり叱ったりするのは、あめを使うか鞭を使うかの違いでしかなく、背後にある目的は操作である。アドラー心理学では縦の関係を否定し、すべての対人関係を横の関係とすることを提唱している。
  • そもそも劣等感とは縦の関係の中から生じてくる意識。
  • 褒めるのでもなく力でもない。こうした横の関係に基づく援助のことを、アドラー心理学では勇気づけと呼んでいる。
  • 褒めてもらうことが目的になってしまうと、結局は他者の価値観に合わせた生き方を選ぶことになる。
  • 人はどうしたら勇気を持つことができるのか?アドラーの見解は、人は自分には価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる。
  • ではどうしたら、自分に価値があると思えるようになるのだろうか?これはシンプルで、私は共同体にとって有益なのだと思えた時にこそ、自らの価値を実感できる。これがアドラー心理学の答えになる。簡単に言えば私は他者に貢献できていると言う主観でよい。その感覚は評価ではなく、他者からの感謝の気持ちから形成される。
 
存在するだけで価値がある
 
  • 他社のことを行為のレベルで見るのではなく、存在のレベルで見る。行為のレベルで見ると、その人が何をしたか?と言う次元で見ることになる。これでは、高齢者等は生きている意味がないと言う判断を下してしまう。
 
第五夜 今、ここを真剣に生きる
 
  • 私たちは労働して他者貢献をなし、共同体にコミットし、私は誰かの役に立っていることを実感して、ひいては自らの存在価値を受け入れている。つまり仕事の本質は他者貢献。
  • 幸福とは貢献感である。
  • 貢献感を得るための手段が他社から承認されることになってしまうと、結局は他者の望み通りの人生を歩まざるをえません。承認欲求を通じて得られた貢献間には自由がない。共同体感覚さえあれば承認欲求は消える。わざわざ他社から認めてもらうまでもなく、私は誰かの役に立っていると実感できるから。目に見える形ではなくても構わない。目に見えない形でも、誰かの役に立てていると言う主観的な感覚があればいい。
  • 人は特別であろうとするから、何かを求めすぎて苦しくなる。普通であることの勇気が必要。そもそも平凡であることは何かよくないことなのか?何かを取ったことなのか?普通である事は無能であることでは無い。わざわざ自らの優越性を誇示する必要などない。
  • 人生を線として捉えるのではなく、点の連続なのだと考える。すなわち人生とは、連続する刹那なのです。これを知らないお友達は、若者に線の人生を押し付けようとする。いい大学、大きな企業、安定した家庭、そのような直線上にあるレールに乗ることが幸福な人生なのだと。
 
☆☆☆
 
面白かった。でも岸見一郎さんのアドラー心理学入門を読んでいる人ならば、この本は読まなくてもいいかも。同じような話がストーリーになってる感じ。むしろ要点だけを学びたいのであれば、アドラー心理学入門のほうがいいかな。