ゾウの時間、私の時間

主に読書のメモになります。音声入力なので誤字脱字が多そう。

【読書メモ】ゲンロン0 東浩紀

東浩紀さんのゲンロン0を再読したのでメモに残します。最初読んだときは面白すぎて次々に読んでしまったので、メモを取る余裕がありませんでした。人文思想書とは思えないおもしろさがあります。ということでオススメの本です(=゚ω゚)ノ今年読んだ本の中ではサピエンス全史とゲンロン0が今最強!

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 
 
  • 人間が豊かに生きていくためには特定の共同体のみに属する村人でもなく、どの共同体にも属さない旅人でもなく、共同体に属しつつ別の共同体にも訪れる観光客的なあり方が大切
  • 共同体の外部を尊重すべきという点では多くの思想家が一致。自分が属する共同体ばかりを尊重した挙句の世界大戦があったからだ。しかし、いまの時代はまたしても自国ファースト中心になりつつある。
  • 観光客から始まる新しい他者の哲学を構想するのがこの本の目的。
  • 観光は近代以降の言葉。旅や巡礼や冒険は昔から存在したが観光は近代以降の社会にしか存在しない。その理由は大衆社会と消費社会が関係しており、労働者階級が力をもったから。富裕層だけのものではなくなった。
  • 本書の狙いの3つ
  1. グローバリズムについての新たな思考の枠組みを作りたい。観光はグローバリズムと切り離せない。だから観光の是非の議論はグローバリズムの是非をめぐる議論と切り離せない。今までの思想ではグローバリズムを悪と捉えてきた。確かにグローバリズムは富の集中を強めたか、国家間では貧富の差を縮めている。世界は今急速に均質になりつつある。
  2. 2つ目の狙いは人間や社会について必要性(必然性)からではなく不必要性(偶然性)から考える枠組みを提示したい。そもそも観光は必要に迫られて行うものではない。行く必要もないはずの場所にふらりと行き、見る必要のないものを見て、会う必要がない人に会う。観光客の本質を捉える上でこの偶然性は極めて重要で、そこに観光客の限界があり、また可能性がある。
  • 3つ目の狙いは、真面目と不真面目の境界を越えたところに、新たな知的言説を立ち上げたい。学者は基本的に真面目な事しか考えない。しかし観光とは不真面目なものだ。だから学者にとって観光を研究対象とする事はとても難しい。しかし人文系の学者はまさに今、真面目と不真面目の二項対立を越えなければならないと言うのが東さんの認識。例えば今のテロリストの今の最大の問題点は、テロリスト自身が観光客的な存在になっていることである。そんな彼らの動機について真面目に考察すればするほど空回りしてしまう。しかしテロリストの件でその行為は人を殺し、自爆したりするのだから真面目としか言いようがない。この真面目と不真面目とも言えないこのような行為に対して、政治的な思考は原理的に対処できない。なぜなら政治的なるものの本質は自国民と敵を公的な基準で分けることにあるから。テロリストの行動を予測するためには、真面目と不真面目の境界を棚上げする必要がある。
  • ルソーは政治思想家としては個人は共同体の意思に従うべきと主張し、全体主義に近い立場の人物として知られている。しかし文学者としてはゴリゴリの実存主義者で、個人主義
  • 個人主義の文学者が集まり全体主義な社会を生み出すメカニズムを考案しなければならなかった。一般意志の概念はその必要性から生み出された。
  • 5の理由、ルソーは人間が嫌いだった世界も嫌いだった。理想はそもそも人間は社会など作らず、したがって学問も芸術も持たず家族単位でバラバラに生きるのが本来の姿だと考えていた。にもかかわらず人間は社会を作った。それはなぜかを考えた。
  • 人間は社会を作りたくない。にもかかわらず人間は現実に社会を作る。言い換えれば公共性など誰も持ちたくないのだが、公共性を持つ。アダムスミスの道徳感情論はルソーと同じように指摘で孤独な個人がいかにして社会を構成するようになるか、そのメカニズムを主題としている。
  • この本の主題の観光客はまさに社会など作るつもりもないが、にもかかわらず社会を作ってしまう存在の範例として考えられている。
  • ルソーやアダムスミスの考えとは違ってなぜか今は人間はそもそも人間が好きであり、社会=国家を作るものであるとされている。結果として19世紀以降の世界においては社会性のある人間と社会性のない人間、公共性のある人間と公共性のない人間、神的な人間と私的な人間、政治家と文学者、真面目な人間と不真面目な人間とが単純に切り分けられることとなった。
  • この切り分けの中で捉えるからこそ、観光客あるいはテロリストも見えなくなるのである。21世紀の思想はもう一度それを見えるようにしなければならない。この本は人間は人間が好きではない、人間は社会を作りたくない、でも人間は社会を作る。その理由を一般意志の再読ではなくて、観光客のあり方に、見出そうと試みるもの。
  • 観光客の哲学の基礎固めについて思考するために2人の哲学者を召喚。1人目がヴォルテールヴォルテールカンディードにてライプニッツが主張した最善説を批判した。最善説とは、世界は最善であり悪の事実にもかかわらず合目的的であり、有限な諸事物の価値は普遍的全体を実現する手段として肯定されると言うテーゼ。つまり世界はうまくいってるので、細かいことは気にするなってこと。神は存在する。神は最善である。したがって神がこの世界を作ったのであるとすれば、この世界もまた最善のはずだ。戦争とか災害があるけど、これは神の配慮であって、必ず最善につながっている。
  • 最善説の支持者はこの現実に間違いは無いと考え、すべての苦しみや悲しみに意味があると考える。批判者はそうでないと考える。何の意味もなく無駄に苦しめられ殺される人もいると考える。重要なのはその対立である。どちらが正しいかという議論は証明することもできないので意味がない。だから重要なのはその信念が実践に与える影響だ。ライプニッツは間違いはないと信じた方が人が幸せになれると考え、ヴォルテールは逆に間違いがあると考えなければ人は誠実に生きることができないと考えた。ヴォルテールはまさにその誠実さを証明するためにこそカンディード書いた。
  • 観光客の哲学の基礎固めの2人目はカント。永遠平和のためにの3つ目の条件が観光客の哲学に関連深い。以下に永遠平和設立のための3つの条件を書く。
    1. 各国家における市民的体制は共和的でなければならない。
    2. 国際法は自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。
    3. 世界市民法は普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。
  • 永遠平和の条件の1つ目2つ目は極めて単純な話で、成熟した市民が集まって成熟した国家を作り、成熟した国家が集まって成熟した国際秩序を作りその結果永遠平和が訪れると言う成熟の連鎖の物語。しかし見つめが難しい。普遍的な友好とはなんだろうか。カントは興味深いことを述べている。問題とされているのは人間愛ではなく、権利である。つまり重要なのが感情の問題ではなく権利の問題なのだ。具体的にはカントは訪問権について語る。国家連合に参加した国の国民は互いの国を自由に訪問し合うことができなければならない。これはあくまで訪問の権利だけを意味し、客人として扱われ歓待される権利は含まない。この訪問の権利の規定は観光の権利の規定であるかのように読める。
  • そもそも永遠平和のためには1つ目の条件と2つ目の条件を満たしていれば平和を保てそうな気がする。しかし3つ目のの条件はある。つまり1つ目の条件2つ目の条件の弱点を補うものとして構想されたはずであることを示唆している。ではどのような弱点を補おうとしたのだろうか。
  • 1つ目の条件と2つ目の条件を満たせば成熟した国家間ができ、平和が訪れると言う話だが、それは成熟していない国は国際秩序から排除して良い、むしろ排除すべきだと言う発想を呼び起こす。これは現実に起きており、世界はしばしばならず者国家と言う表現を使うようになった。イラクやイラン、北朝鮮イスラム国などだ。
  • 今や国際政治の軸をなす対立は、国家と国家の対立ではなくむしろ国際秩序とならずものたちの対立である。ならず者国家は国家としての成熟つまり国際秩序への参入を拒否している。しかし国際社会はその拒否そのものを拒否している。
  • 現在の国際社会はこの悪循環に対応できてないし、基礎となる理論も存在しない。20世紀後半の人文思想は他者への寛容を解いてきた。しかし寛容になるためには相手もある程度成熟していないと困ると言う真っ当な反論に対して、従来の他者論は何も言い返すことができない。
  • このジレンマに対して3つ目の条件が1つの道を照らす。カントは国家と法だけでは永遠平和の設立には不十分であると考えており、利己心と商業精神が、各国家を国家連合の設立へと誘うと考えている。
  • 観光客は自分の利己心と旅行業者の商業精神に導かれて他国へ訪問するだけである。それにもかかわらずその訪問が平和の条件になる。具体例を出すと、日本と中国あるいは日本と韓国の関係は常に政治的問題を抱えているが、相互に行き来する大量の観光客によって関係悪化は抑制されている。したがって中国といくら国交が悪化しても中国からの観光客を受け入れるなければならない。ロシアとの関係が悪化してもロシアからの観光客を受け入れなければならない。カントの訪問権はそもそも外交官をモデルとしたが、観光客をモデルとしたほうが理解しやすい。
  • 観光客の存在が作り出す友好の可能性について哲学がどのような議論を行なっているのだろうか。ここで哲学者カールシュミットを召喚。カールシュミットの哲学で重要なものが、政治的なものの概念、である。シュミットによると、政治が政治として機能するのは友と敵が峻別されている時だけという理論で、友敵理論と呼ばれている。美学の判断は美と醜、経済学の判断が益と損のように政治は友と敵の二項対立の上に成立する。
  • 友と敵の対立とは何か?戦争のような極限状態において友を守るために敵を撲滅する判断をする。これがシュミットの考える政治の本質。そしてその判断には美醜、善悪、損益といった別の二項対立は関わってはならない。たとえ倫理的に正しくなく、経済的に損になる行為でしかなかったとしても、友の存在を守るためにやらねばならないことがあるとすれば、断固それを遂行するべきであり、それが政治だというのがシュミットの考え。友敵の区分は私的ではなく公的。政治は無根拠に敵を定め、その上で政治は共同体の存続を第一に考え、必要とあらば他のあらゆる判断を停止する。
  • しかしシュミットの思想は極めて危険である。これは独裁を肯定し、敵の撲滅を肯定し、しかしそこに一切異論の入る余地を残さない思想である。この思想に導かれシュミットはナチスの独裁を支持しユダヤ人の排除政策を推進することになった。
  • 友敵理論は実に危険な思想である。だけど単純に危険だと言う理由で排除してはならない。なぜなら国家とは何か人間とは何かを考え抜いた結果として論理的に導きだされた理論だからだ。カントとシュミットの間の哲学者ヘーゲルを召喚。ヘーゲルは国家を市民社会の理性にあたるものと捉えた。国家はその人々が1つの土地に住み、1つの歴史を共有し、1つの社会を作る1つの民族なのだと言う自己認識を抱いた時に初めて生まれる。この考えは近代政治思想の基礎をなしている。
  • 人は家族から離れ、市民を経て、最後に国民になることで初めて成熟した精神に到達する。個々人の最高の義務は国家の成員であることであるとヘーゲルは記している。
  • 人間は自分のことしかわからない、しかし他方で1人では生きていけない。ではどうやってその折り合いをつけるのか? ヘーゲルは国民になる事の必要性を持ち出その疑問に答えようとした。人間がきちんとした人間になるためには家族の一員であることや。市民社会で他社に触れる事とは別に、何らかの上位の共同体に属する事が絶対に必要だと考えたのだ。ルソーのように、人間は人間が好きでなく社会を作りたくない、にもかかわらず人は社会を作る、なぜかと問うた。ヘーゲルはその問いに対して人間は国家を作り国民になることで社会を作りたくなかった未成熟な自分を克服することができると答えた哲学者。
  • シュミットの友敵理論はヘーゲルの人間観を突き詰めたところに現れている。国家がなければ人間はない。政治とは国家を存続させる営みである。そのためにシュミットは友敵を峻別したのだ。シュミットがグローバリズムを拒否するのはそれが友敵の区別を抹消し、政治そのものを抹消するからだ。
  • 友敵の対立を潜り抜けないと人は人間になりえない。だとすれば村人でも旅人でもない観光客は、そもそも人間未満の未熟な存在と言うことになる。友敵理論の存在やヘーゲルパラダイムが根底にある根底にある近代の神の思想には、人間についてまともに考えようとすればするほど観光客については考えることができないと言う構造がある。
  • 近代思想は人間は友敵の対立をくぐらないと成熟しないと述べた。だとすれば観光客の哲学を設立するためにはその対立をくぐらない別の成熟のメカニズムを探る必要がある。言い換えれば国会の所属を介さずに、普遍と特殊を重ね合わせるメカニズムを考える必要がある。
  • 観光客の哲学と友敵理論の対立関係を多角的に捉えるべく、2人の思想家を参照し、2つの新たな言葉を導入する。
    1. 1つ目の言葉は動物である。この動物の概念はアレクサンドルコジェーヴと言うフランスの思想家から借りている。コジェーヴはシュミットより一回り年下の人物だ。後10分が言うには人間が人間として生きる歴史は本質的にナポレオン戦争で終わっていたのであり、20世紀の2つの対戦は現在がすでにポスト歴史に入っていることを確認させるものに過ぎなかったと述べた。人間の歴史が終わるとはいかにも奇抜な上に聞こえるが、この背景にもシュミットの思想と同じくヘーゲルの独特の人間観が横たわっている。ヘーゲルを読解したご自分の考えでは、人間とは自らの存在をかけて他人の承認を認め、環境を変革し続ける精神的な存在に他ならない。人間は自己の人間的欲望、すなわち他者の欲望に向かう自己の欲望を充足せしめるために自己の生命を危険にさらしそれによって自己が人間であることを証明する。他人の承認を求めず、与えられた環境に充足ひている存在は、たとえ生物学的には人間であってももはや精神的には人間とは言えないだろう。これがヘーゲルコジェーヴの考えである。動物と言う言葉はポスト歴史についての記述に登場する。歴史の週末の後、人間ははしやトンネルを建設するとしてもそれは鳥が子を作り雲がクモの巣を張るようなものである。ポスト歴史の動物であるホモサピエンスと言う種は極めて豊かで安全な暮らしを過ごすことになり、社会活動をし、文化を作るだろうが、それはもはや人間の活動とは言えず、むしろ動物の戯れに近い。ジャンクフードと娯楽に囲まれ、政治も芸術も必要とせず、次々と提供されて新商品に快楽をゆだねているだけのアメリカ的な消費者が動物にみえるという指摘はもっともなことだろう。シュミットのコジェーヴともに、人間と人間の生死をかけた闘争がなくなり、国家と国家の理念をかけた戦争が解消され、世界がひとつになり消費活動しか存在しなくなった時代における人間の消失を問題にしている。シュミットはそれを政治の喪失と呼び、コジェーブは歴史の終焉と呼んだ。人間には必ず共と敵きがいる。そして国家がある。しかし動物には友も敵も存在しない。そして国家も存在しない。国家を離れ民族を離れ、他者の承認も歓迎も求めず、個人の関心だけに導かれてふわふわと行動する観光客は、以上の点でまさに動物だということができる。
    2. 2つ目の言葉は消費である。それに関連して労働と匿名も鍵となる。こちらで見たいのはハンナアーレントアーレントが1958年に人間の条件と言う著作を出版しているか、ここで問題とされているのもシュミットやコジェーブと同じく人間の消失である。彼とは人間には生物学的な人間であることとは別に人間として生きるための独特の哲学的条件があると考えた。現代の人間はその条件を失っていると考えており、人間の条件は人々がその条件を取り戻すために書かれた書物である。アーレントは人間が行う社会的な行為にを3つに分類しており活動と仕事と労働である。活動と仕事は人間の声に意味を与えるが労働は意味を与えない。しかし現代社会では労働が優位になっているのが問題だと議論を立てたのである。労働においてアーレントの言葉を借りれば顔のない生命力が売買されているに過ぎない。活動の本質は互いに顔を曝し、差異を認め合って上での言語的なコミニケーションにあるので必ず他者の存在を要求する。労働の本質は、人間が顔をなくし、人数と時間で計量される生命力を提供することにある。人間は名を曝し、他者と議論し、公共の意識を抱く時に初めて人間であることができる。けれども匿名で他者との議論もなく、生命力を自分1人の賃金と交換しているときには人間であることができない。これが人間の条件の基礎を懐概念対立である。しかしアーレントの哲学は大きな弱点を抱えている。なぜならば彼女がモデルとしていた古代ギリシャ都市国家奴隷制度の上に成立していたものだったからである。
  • 今挙げた哲学者は、19世紀から20世紀にかけての大きな社会変化の中で改めて人間とは何かを問うた思想家である。シュミットは友と敵の境界線を引き政治を行う者こそが人間だと考え、コジェーヴは他者の承認をかけて逃走するものが人間だと考え、アーレントは広場で議論をし公共作るものこそが人間だと答えた。
  • 観光客は大衆であり労働者であり商社である。観光客が素敵な存在であり公共的な役割を担わない。観光客は匿名であり訪問先の住民とは議論しない。訪問先の歴史にも関わらない。政治にも関わらない。観光客はただお金を使う。そして国境を無視して惑星上を飛び回る。友も作らなければ敵も作らない。そこにはシュミットとコジェーブとアーレントが人間ではないものとして思想の外部に弾き飛ばそうとした、ほぼ全ての性格が集まっている。観光客はまさに20世紀の人文思想全体の敵なのだ。だからそれについて考え抜けば必然的に20世紀の思想の限界は乗り越えられる。ヘーゲルが家族から市民へ、そして国民へと言う弁証法でしか人間を定義できなかったのだとしたら、観光客から立ち上がる人間の定義はありえないものか。それを東さんは考えている。
 
第3章 2層構造
 
  • 今の世界はヘーゲルが提唱した単線的なものとは大きく異なっている。国家について考えることが政治について考えることではない時代だ。
  • カントは国家は人格だと考えた。ヘーゲルは国家は市民社会の自己意識だと考えた。この定義を組み合わせると、人間に身体と精神があるように、国民国家には市民社会と国家があるというイメージが導かれる。国民国家は国家と市民社会、政治と経済、上半身と下半身、意識と無意識の2つの半身からなっており、カントとヘーゲルは前提の上で国家が市民社会の上に立ち、政治の意識が経済の無意識を押さえ込んで国際秩序を形成するのが人倫のあるべきすがただと考えた。ナショナリズムの時代においてはこの2つの半身が合わさり、1つのネーションが構成されていた。だからこそネーションがすべての秩序の基礎となりえた。けれども21世紀の世界ではまさにその前提こそが壊れているのである。政治はネーションを単位に動いている。けれども経済はネーションを単位としてない。商人は世界中の消費者に商品を売ってお金を設けている。
  • 現代は決してナショナリズムの時代ではないが、グローバリズムの時代でもない。ナショナリズムグローバリズムが政治と経済の2つの領域それぞれ割り当てられ共存している。東さんはそれを2層構造の時代と名付けた。経済がつながるのに政治はつながらない事態。欲望はつながるのに思考はつながらない世界。下半身はつながっているのに上半身はつながりを拒む時代。21世紀の世界は人間が人間として生きるナショナリズムの外、人間が動物としてしか生きることのできないグローバリズムの層、その2つの層が互いに独立したまま重なり合った世界だと考えることができる。
  • 観光客の哲学とは、グローバリズムの層とナショナリズムの層をつなぐヘーゲル的な成熟とは別の回路がないか、市民が市民社会にとどまったまま、個人が個人の欲望に忠実なまま、そのままで公共と普遍につながるもう一つの回路はないかその可能性を探る企てである。
  • リバタリアニズムとはリベラリズムと違い、大きな政府に対して否定的である。リバタリアニズムは個人の自由を尊重するので、時に無政府主義に近づくものである。リバタリアンの国家は、政治=人間の層と言うよりも、むしろ徹底して脱政治的な、経済=動物の層に属するメカニズムとして考えられており、国家について民間企業と同じように論じることができる。だからヘーゲルパラダイムに縛られていないのである。そのために新たな政治思想の萌芽が宿っている。観光客の哲学の萌芽になるかもしれない。
  • リバタリアニズムは、1971年に刊行されたジョンロールズの正義論によるリベラリズムの整備への批判としてノージックにより登場した。
  • リベラリズムは普遍的な正義を信じたし、他者への寛容を信じた。けれども20世紀後半に急速に影響力をしない今ではリバタリアニズムコミュニタリアニズムだけが残されている。リバタリアンには動物の快楽しかなく、コミュニタリアンには共同体の善しかない。このままではどこにも普遍も他者も現れない。それが僕たちが直面している思想的な困難である。
  • 観光客の哲学とは、政治の外部から立ち上がる政治についての哲学、動物と欲望から立ち上がる公共性についての哲学、グローバリズムが可能にする新たな他者についての哲学を意味している。
  • マルチチュードの概念にある適切な変更を加えれば、本書が必要とする観光客の概念に生まれ変わると東さんは考えている。そしてこれが新たな政治思想の出発点になると考えている。
  • ネグリとハートはグローバル化が進む冷戦後の世界を「帝国」と呼んだ。帝国とはグローバルの経済的あるいは文化的な交換をスムーズに機能させるため、国民国家とは別に、国家と企業と市民が共に作り上げる新たな政治的秩序を意味している。国民国家は経済と文化を管理下におけないと言うのが、今までの前提知識。グローバル化が生み出す秩序こそが帝国であり、覇権国家が帝国と言うわけではない。
  • 観光客の哲学と、ネグリたちの帝国との差異は、ネグリたちが国民国家の体制から帝国の体制への移行について考えたことに対し、観光客の哲学は両体制の共存について考えていること。
  • 規制訓練とは権力者が命令し懲罰を与えることで対象者を動かす権力のこと。生権力とは対象者の自由意志を尊重しながらも、規制を変えたり価格を変えたり環境を変えたりすることで、結果的に権力者の目的通りに対象者を動かす権力のこと。帝国では国民国家の体制では規制訓練が優位で、帝国の体制では政権力が優位であると書いている。
  • マルチチュードとはもともと多様性を意味する英語の抽象名詞であり、それほど良い言葉ではなく、むしろ衆愚のニュアンスの強い否定的な言葉だった。しかしネグリたちは帝国の内部から生まれる帝国の秩序そのものへの抵抗運動をひどく指す言葉として捉え直した。マルチチュードはただの抵抗運動と違い、帝国自身が生み出したものを積極的に利用し抵抗する。
  • マルチチュードの文脈において、政治的なものの自律性を社会的・経済的なものから切り離しで提示しようとする理論にはもはや何の意味もないとネグリらは断言する。
  • マルチチュードの概念には欠点がある。それは、マルチチュードの力がどのようにして現実の政治と結びつくのかが、デモがどのようにして政治を動かしていくのかが、ネグリたちによって示されてない点だ。
 
第4章 郵便的マルチチュード
 
  • 観光客とは、帝国の体制と国民国家の体制の間を往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在の名称。ネグリたちが提案したマルチチュードの概念に近い。しかしマルチチュードの概念には2つの欠点があった。観光客の概念はこの欠点を克服した上で作られなければならない。
  • 郵便と言う概念は、存在し得ないものは端的に存在しないか、現実世界の様々な失敗の効果で存在しているように見えるし、またその限りで存在するかのような効果を及ぼすと言う、現実的な観察を指す言葉である。この本では失敗のことを誤配と呼ぶ。〒と誤配の概念について詳しく知りたい人は、存在論的、郵便的を読むこと。
  • 否定神学マルチチュードならぬ郵便的マルチチュードの概念を考える。郵便的マルチチュードこそが観光客であると、この定義を東さんは提案したい。否定神学的なマルチチュードは連帯しないことによる連帯を夢見るしかなかった。しかし郵便的マルチチュードは、連帯し損なうことで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまう、そのような錯覚の集積が作る連帯を考えたいと思う。
  • 郵便的マルチチュードのコミニケーションは、否定神学マルチチュードのコミニケーションと異なり偶然に開かれている。観光客は連帯がしないか、そのかわりたまたま出会った人と言葉を交わす。デモは敵がいるが、観光には敵がいない。デモは友敵理論の内側にあるが、観光はその外部にある。否定神学マルチチュードは無から生まれ無によってつながっていた。郵便的マルチチュードは誤配から生まれ誤配によってつながる。
  • 僕たちは常に、同じ社会=ネットワークを前にして、スモールワールドなかたちとスケールフリーな次数分布を同時に経験している。そうであるならば、2つの経験から、2つの秩序、2つの権力の体制が生まれるとは考えられないだろうか。
  • 人類社会が1つのネットワークである限り、そこには必ずスモールワールドの秩序を基礎とした体制と、スケールフリーの秩序を基礎とした体制が並びたつ。ナショナリズムの時代に戻ることができないが、かといってグローバルリズムの時代に完全移行すること思ってきない。
  • グローバリズムへの抵抗の新たな場所を、帝国の外部に求めるのでもなければ、帝国の内部に求めるのでもなく、むしろ帝国とその外部の、すなわちスモールワールドとスケールフリーを同時に生成する誤配の空間そのものの中に位置づけることができるのではないだろうか。誤配をスケールフリーの秩序から奪い返すこと、それこそが抵抗の基礎だと考えられないだろうか。これが東さんの提案。再誤配の戦略こそが、この国民国家=帝国の思想家の時代において、現実的で持続可能なあらゆる抵抗の基礎に置かれるべき必要不可欠の条件のように思われる。
  • 僕たちはあらゆる抵抗を誤配の再上演から始めなければならない。これを観光客の権利と名付けよう。
  • もし憐れみがなければ、人類はとうの昔に滅びていただろう。人間は人間が好きではなく、人間は社会を作りたがるはずがない。しかし作る。その理由は人間には憐れみの感情があるから。憐れみこそが社会を作り、そして社会は不平等作り。観光客の哲学と誤配の哲学であり、連帯と哀れみ哲学。僕たちは誤配がなければ、そもそも社会すら作ることができない。
 
第2部 家族の哲学
 
  • 個人でも国家でも階級でもない10第4のアイデンティティーの発明はるいが発見が必要である。観光客の哲学の構想は、最終的にはこの課題にたどり着く。
  • 観光客がどこにすべき新しいアイデンティティーとしての東さんが考えている候補は家族である。家族の概念を再構築軽いが脱構築して、観光客の新な連帯を表現する概念に鍛えあげられないかと考えている。
 
第6章 不気味なもの
 
  • 人は両親なり教師なるよ真似るだけでは大人になれない。彼らがなぜそのような振る舞いをするのか、そのメカニズムを理解することで初めて大人になる。
  • 観光客の視線とは、世界を写真あるいは映画のようにではなく、コンピューターのインターフェイスのように捉える姿勢なのではないだろうか?そこにはイメージもあればシンボルもあり、そして解読しなければならない暗号もある。
 
第7章 ドストエフスキーの最後の正体
 
  • ドストエフスキーは、信仰が失われ、正義が失われた時代に置いて人がテロリストにならないためにはどうすれば良いのか、そのことばかりを考えていた小説家だった。
  • 社会主義者から地下室人、そしてスタブローギンへ、理想主義者からマゾヒストへ、そしてサディストへ。社会を変えたいと願う人間から、世界を変えるなんて偽善だと顔を赤らめて罵る人間、そして世界なんて変わっても変わらなくてもいいから好きなことをやれば良いのだとうそぶく人間へ。ドストエフスキイ弁証法は悪霊でそのような第3の主体にたどり着いた。
  • スタブロギンの無関心病からの解放の必要性こそをドストエフスキーは訴えようとしたと考えるべき。スタブロギンのニヒリズムを超えたその向こうに現れる最後の段階があるはず。
 
 
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再読してだいぶ理解できた、ような気がする。
数週間後にもう一度読みたいね(`・ω・´)”いや〜本当に知的好奇心がくすぐられる本ですわ。超お勧めします!