ゾウの時間、私の時間

主に読書のメモになります。音声入力なので誤字脱字が多そう。

【読書メモ】史上最強の哲学入門 飲茶

飲茶さんの史上最強の哲学入門を再読したのでメモに残そうと思います。この本を最初に読んだのがもう2年前ぐらいかなぁー。哲学に興味が出てきた頃にちょうど読むことができ、スムーズに哲学の世界へと誘われたのでとても感謝している本です。

 

史上最強の哲学入門 (河出文庫)

史上最強の哲学入門 (河出文庫)

 

 

 
  • プロタゴラス。絶対的真理を否定し、価値観なんて人それぞれだよと言う考えを相対主義と言う。神話と言う絶対的な価値観が崩壊した時代において、相対主義を代表する哲学者がプロタゴラスです。当時の古代ギリシアは民主主義国家であり、政治家たちは相手を論破することが大切で、どんな人でも黒を白に、白黒に見せかけることができる相対主義哲学は、とても人気だった。例えばどんなに冷たい水でもさらに冷たい水と比較すれば暖かい水ということができる。相対化を行えばどんな主張にもメスを入れることができるのです。
  • ソクラテス。人それぞれさのような相対主義的な考えは絶対的な真理を探求しない考えである。こうなってしまうと口の上手い雄弁な政治家が強くなってしまい、つまり煽動政治家だけが国を動かすようになってしまう。プロタゴラスから相対主義の哲学を学んだ政治家たちは、見せかけだけの言葉をうまく操る、民衆から人気を得て、政治家になっていたのだ。この分修正時に陥ったギリシャに手強く出す男がソクラテスソクラテスは絶対的な真理を追い求める暑い人だった。だからソフィストと呼ばれる口だけの政治家にどんどん喧嘩を売っていた。ソクラテスの有名な言葉に無知の知があり、これは私は心理について何も知りませんと自らの無知をさらけ出し、だから一緒に真理について考えていこうと言うものである。ソクラテスによって恥をかかされた政治家たちは、ソクラテスを裁判にかけそして死刑を宣告されてしまった。ソクラテスの弟子のプラトンたちの計らいによってソクラテスは逃げることができたがソクラテスは逃げずに自ら毒杯を手に取りそれを飲み干し死んだ。命を賭けるに値する真理を追求するための男の生涯であった。この生き方は若者たちにとても影響を与えたのだった。
  • プラトンプラトンイデア論が有名だ。イデア論とは世界を理想の世界と現実の世界の2つに分けた考える。例えば僕たちは何か美しいものを見たとき美しいと感じる。これは教えられてもないのに感じる感覚だ。つまり美しいと言うイデアと呼ばれる本質があり、そのイデアの不完全なコピーが現実の世界にあるということだ。プラトンにとって哲学者とは究極の理想、つまりイデアを知ることを追求する人間のことだ。イデアを知ることができる優秀な哲学者が国王になるべきと言う鉄人思想をプラトンは持っていた。プラトンソクラテスの弟子だった。ソクラテスは民主主義の1つの結果として死刑を宣告された。賢い民衆、賢い政治家が民主主義で良い国を作ることもできるが、バカな民衆、バカな政治家が集まればすばらしい人間、ソクラテスのような人を殺してしまうのだ。このような経験もあり、アイディアを知る人間こそが国王になるべきだとプラトンは考えたのだ。プラトンは国家の未来のために才能ある若者たちを集め、哲人王を育成するためにアカデメイアを作った。これが後の大学の起源となる教育機関である。
  • アリストテレスプラトンが創設したアカデメイアの生徒の1人がアリストテレスであり、プラトンの学校で最も優秀な生徒であった。しかしプラトンの思想に、意を唱えた。簡単に言ってしまうとイデアなんてどうやって知ることができるの?結局のところイデアは現実の世界ではないんだから知ることはできない。だからアリストテレスは現実なるものを観察して定義した方がよっぽど役に立つものと考えた。そのような観察をあらゆるもので行い、抽出した特徴を体系的に分類し整理し世界を把握しようとする学問を作った。それ故アリストテレスは万学の祖と呼ばれている。アリストテレスイデアのような理想論を掲げるのではなく、現実に寄り添った国家の体制を作るべきだと考えた。アリストテレスは3つの政治体制を考えている。
    1. 君主制
    2. 貴族制
    3. 民主制
  • 君主制独裁制に陥りやすく、生属性は貴族の権力争いに発展しやすく、民主制は民衆が愚かだとだめな政治になる。そのような危険性をアリストテレスは遠の昔に考えていたのだ。
 
中世の哲学へ
アリストテレスの時代以降、哲学の進歩は止まり、宗教、つまりキリスト教が支配する中世の時代へと突入した。人間は理性だけでは真理には到達できない。だから神への信仰が必要なのだ、と言うふうに思想が進んでいた。しかしルネサンス宗教改革がおこり、信仰重視の時代から、理性重視の時代が戻ってきた。
 
  • デカルト。哲学者がそれぞれ自分勝手な意見を主張しあっているのが嫌だったデカルトは哲学も数学と同様に、誰もが正しいと認めざるを得ない確実なことをまず第一原理と設定し、そこから哲学体系を作り出していくべきだと考えた。デカルトはその第一原理を考えまくった。第一原理は誰もが疑うことのできないものでなければならない、いったいそれは何だろうか。デカルトは様々な物を疑いまくったが、疑えないものなどないように思えた。しかし、疑っている私がいると言う事だけは疑いないのではないだろうかということに気づいた。なぜならたとえ疑っている私の存在を疑ったとしても、やっぱり疑っている私が存在するからだ。こうしてできた第一原理がデカルトの有名な言葉、われ思うゆえにわれあり。デカルトは哲学の基礎となる絶対に疑いない真理を導き出した。
  • ヒューム。デカルトは第一原理までは素晴らしかったが、それ以降はおかしくなってしまった。例えば私の存在は確実なのだから、私が明晰に理解したり認識するものも確実に存在する。と、変な方向に行っちゃったので、デカルトの批判から生まれた哲学体系の1つにイギリス経験論がある。これは人間の中に浮かぶ知識や観念はすべて経験から来たものに過ぎないと言う考えの事だ。イギリス経験論完成させた男がヒュームである。デカルトの言う我ありの、我、とは結局のところ経験と言う知覚体験の集合体に過ぎないのだとヒュームは主張した。ヒュームは現実には存在しない観念のことを、過去の経験の組み合わせからできた複合概念と呼んだ。人間の想像力はこの複合概念によってペガサスとか神様とかを作り出すと考えたのである。ヒュームは科学現象も経験上の産物にすぎないと主張した。例えば炎が熱いと言うのはそういう経験があったからであって炎と熱いことにはホントは何の因果関係もないかもしれない。炎の近くにたまたま熱さを引き起こす物質が近くにあるだけかもしれないからだ。科学と言う学問はその経験上の思い込みを絶対化しているだけに過ぎないのである。
  • カント。ヒュームの懐疑を真っ向から受け止めそれを乗り越える心理を見つけ出したのがドイツの哲学者カントである。平の主張とは、すべての知識や概念は、人間が経験から作り出したものに過ぎないと言うことであった。でも人間というのは同じ経験をしている人なんてほとんどいない。でも学問を共通して理解できる。これは何でだろうか?そこでカントは考えた事は、確かに人間は経験から知識を得ている。だけどその経験の受け取り方には人間としての特有の形式があり、それは経験によらない先天的なものがあるということである。カントは人間は何かを見るときには必ず空間的と時間的にそれを見ているという経験の仕方について、人間共通の形式があることを見出した。例えば何かを見ると言う経験をするときに、どこどこの空間のどこどこの時間にあるものを見ているはずである。空間にないものや、時間にないもの人は経験することができない。ヒュームの言い分では、人間は経験に基づいて概念を作っているので、人の経験がバラバラである以上、人間間で共有できる絶対的な真理なんてものはないと言うものだった。しかしカントは、経験の受け取り方には人類共通の形式があるので、その共通の形式の中では人類として普遍的な真理を見出すこ、とが可能であると考えた。しかし普遍的な真理とは人間の中での真理であり、世界の真理と言うわけではない。鳥には鳥の、犬には犬の普遍的真理があり、決してホントウノモノ自体の真理にはたどり着けない。だから、真理とは人間によって規定されるものであるとカントは考えた。それまでの哲学者は、心理とは生物間に限らず全てのもので普遍的な真理があると考えていた。つまり人知を超えた真理と言うものは見つけることができないんだ。
  • ヘーゲル。近代哲学を完成させたと言われる大哲学者ヘーゲルヘーゲルは真理とは弁証法と言う手法により少しずつ形作られていくものだと主張した。物事が対立してそれらが互いに高みを目指していくことによって、どんどんと問題を解決していき最後には究極の真理に到達すると言うことだ。
  • キルケゴールヘーゲルの哲学に反論を提示する哲学者がキルケゴールだ。キルケゴールヘーゲルの哲学を、今ここに生きている私という個人を無視した人間味のない哲学であると言った。ヘーゲルの言う弁証法で心理が見つかったとしても、何年後になるか誰が見つけるのか、どんな真理を見つけるのかということがわからないからだ。
  • サルトルサルトルヘーゲルキルケゴールの対立と言う問題についてこう提言した。だったらいっそ究極の真理を求める歴史の進展を、僕たち自身の手で進めてみようじゃないか。そのために人生を賭けてみようじゃないかと。ヘーゲルの哲学を他人事のように捉えないで自分から積極的に参加して人間個人として今を生きる意味を見出したらどうかと言う話だ。サルトルの有名な言葉に人間は自由の刑に処せられていると言うものがある。自由と聞けばなんだか幸せなような気がするが、それぞれが言うにはそうでは無い。何故かと言うと、人は自ら決断することができるからだ。その決断は自由であるが、その決断を下すのであればどんな責任が来ようとも自分が引き受けなければならない。その決断が正しくても正しくなくても。でもサルトルはここで力強い言葉を発する。むしろ、だからこそ、人間は歴史に参加するべきであると主張する。どうせ人は自由の刑に処せられているのだから、どうせなら人類を理想の社会、心理に向かって進展させる歴史と言う大舞台に立ってみたらどうか、というのがサルトルの提案です。
  • レヴィストロース。サルトルの考えに批判をしたのが構造主義の祖と言われるレヴィストロースだ。サルトルというか今までの哲学者の考えでは、人類が目指すべき歴史があると言う発想だが、レヴィストロースは本当に人類が目指すべき歴史なんていうものはあるのかということだ。レヴィストロースは人類学の研究者であり、多くの民族が、未開人を見てきた。西洋の考えでは未開人はまだまだ未熟な、歴史の進化の途中の人間だと捉えていたが、レヴィストロースは多くの民族と触れ合うことで、未開人は西洋人とは違った形態で文化を発展させてきた人類なのだと強く確信するようになった。だから真理を目指して進んでいくと言う西洋人の哲学者は、ただの傲慢な思い込みなのではないかと疑うようになった。
 
 
歴史が弁証法によってより高い次元に成長していき、真理を目指して発展していくという考え。しかし歴史を見れば、世界対戦などを繰り返してたくさんの人が死んでいった。理性や論理なんて意味ないじゃんということを歴史が証明したかのようだった。こうして、歴史は理想の未来へと向かって進んでいるんだと言う近代哲学の説得力がなくなり、そこから現代哲学と呼ばれるものが始まった。現代思想の1つに実用主義と言うものが現れる。簡単に言うと心理かどうかはどうでもよくて、実際の生活に役立つかどうかだけを考えようと言うものである。
 
  • デューイ。この実用主義の代表的な哲学者であるデューイは自らの思想をわかりやすく道具主義と呼んだ。人間の思考とは生きるための道具に過ぎないと言う考えだ。この考えは、全てを道具として何の役に立っているかと言う考え。例えば人を殺したらなぜ悪いのと言う議論はデューイにそれは問題の設定が悪いと言うことで、人を殺したら悪いと言う決め事は何の役に立つの?と道具主義的な問いに変換すると答えを出すことが簡単になると言う。もし人を殺したら悪いと言う決め事がなければ、いつ誰かに殺されるか不安になるだろう。だから人を殺してはいけないと設定し、それが社会の役に立っているんだからすばらしい道具であると、みなすことができる。
  • デリダデリダポスト構造主義呼ばれる現代哲学の旗手である。デリダは西洋文明を今生中心主義であるデリダは西洋文明を音声中心主義であるとして批判した。音声中心主義とは簡単に言えば、話し手を大事にする文化の事だ。そもそも本に書いてある内容を読んでみても、その作者が本当にいいたかったことを理解することはできない。その作者が生きているのであれば尋ねることもできるが、死んでいるのならば誰にもわからない。だから話し手を重視するのではなくて、読み手の解釈を大事にしましょうと言うことをデリダは提案する。
 
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