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ゾウの時間、私の時間

主に読書のメモになります。メインサイトはGallagher Note(⇨https://today-is-the-first-day.com)

【読書メモ】ゲンロン0 東浩紀

東浩紀さんのゲンロン0を再読したのでメモに残します。最初読んだときは面白すぎて次々に読んでしまったので、メモを取る余裕がありませんでした。人文思想書とは思えないおもしろさがあります。ということでオススメの本です(=゚ω゚)ノ今年読んだ本の中ではサピエンス全史とゲンロン0が今最強!

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 
 
  • 人間が豊かに生きていくためには特定の共同体のみに属する村人でもなく、どの共同体にも属さない旅人でもなく、共同体に属しつつ別の共同体にも訪れる観光客的なあり方が大切
  • 共同体の外部を尊重すべきという点では多くの思想家が一致。自分が属する共同体ばかりを尊重した挙句の世界大戦があったからだ。しかし、いまの時代はまたしても自国ファースト中心になりつつある。
  • 観光客から始まる新しい他者の哲学を構想するのがこの本の目的。
  • 観光は近代以降の言葉。旅や巡礼や冒険は昔から存在したが観光は近代以降の社会にしか存在しない。その理由は大衆社会と消費社会が関係しており、労働者階級が力をもったから。富裕層だけのものではなくなった。
  • 本書の狙いの3つ
  1. グローバリズムについての新たな思考の枠組みを作りたい。観光はグローバリズムと切り離せない。だから観光の是非の議論はグローバリズムの是非をめぐる議論と切り離せない。今までの思想ではグローバリズムを悪と捉えてきた。確かにグローバリズムは富の集中を強めたか、国家間では貧富の差を縮めている。世界は今急速に均質になりつつある。
  2. 2つ目の狙いは人間や社会について必要性(必然性)からではなく不必要性(偶然性)から考える枠組みを提示したい。そもそも観光は必要に迫られて行うものではない。行く必要もないはずの場所にふらりと行き、見る必要のないものを見て、会う必要がない人に会う。観光客の本質を捉える上でこの偶然性は極めて重要で、そこに観光客の限界があり、また可能性がある。
  • 3つ目の狙いは、真面目と不真面目の境界を越えたところに、新たな知的言説を立ち上げたい。学者は基本的に真面目な事しか考えない。しかし観光とは不真面目なものだ。だから学者にとって観光を研究対象とする事はとても難しい。しかし人文系の学者はまさに今、真面目と不真面目の二項対立を越えなければならないと言うのが東さんの認識。例えば今のテロリストの今の最大の問題点は、テロリスト自身が観光客的な存在になっていることである。そんな彼らの動機について真面目に考察すればするほど空回りしてしまう。しかしテロリストの件でその行為は人を殺し、自爆したりするのだから真面目としか言いようがない。この真面目と不真面目とも言えないこのような行為に対して、政治的な思考は原理的に対処できない。なぜなら政治的なるものの本質は自国民と敵を公的な基準で分けることにあるから。テロリストの行動を予測するためには、真面目と不真面目の境界を棚上げする必要がある。
  • ルソーは政治思想家としては個人は共同体の意思に従うべきと主張し、全体主義に近い立場の人物として知られている。しかし文学者としてはゴリゴリの実存主義者で、個人主義
  • 個人主義の文学者が集まり全体主義な社会を生み出すメカニズムを考案しなければならなかった。一般意志の概念はその必要性から生み出された。
  • 5の理由、ルソーは人間が嫌いだった世界も嫌いだった。理想はそもそも人間は社会など作らず、したがって学問も芸術も持たず家族単位でバラバラに生きるのが本来の姿だと考えていた。にもかかわらず人間は社会を作った。それはなぜかを考えた。
  • 人間は社会を作りたくない。にもかかわらず人間は現実に社会を作る。言い換えれば公共性など誰も持ちたくないのだが、公共性を持つ。アダムスミスの道徳感情論はルソーと同じように指摘で孤独な個人がいかにして社会を構成するようになるか、そのメカニズムを主題としている。
  • この本の主題の観光客はまさに社会など作るつもりもないが、にもかかわらず社会を作ってしまう存在の範例として考えられている。
  • ルソーやアダムスミスの考えとは違ってなぜか今は人間はそもそも人間が好きであり、社会=国家を作るものであるとされている。結果として19世紀以降の世界においては社会性のある人間と社会性のない人間、公共性のある人間と公共性のない人間、神的な人間と私的な人間、政治家と文学者、真面目な人間と不真面目な人間とが単純に切り分けられることとなった。
  • この切り分けの中で捉えるからこそ、観光客あるいはテロリストも見えなくなるのである。21世紀の思想はもう一度それを見えるようにしなければならない。この本は人間は人間が好きではない、人間は社会を作りたくない、でも人間は社会を作る。その理由を一般意志の再読ではなくて、観光客のあり方に、見出そうと試みるもの。
  • 観光客の哲学の基礎固めについて思考するために2人の哲学者を召喚。1人目がヴォルテールヴォルテールカンディードにてライプニッツが主張した最善説を批判した。最善説とは、世界は最善であり悪の事実にもかかわらず合目的的であり、有限な諸事物の価値は普遍的全体を実現する手段として肯定されると言うテーゼ。つまり世界はうまくいってるので、細かいことは気にするなってこと。神は存在する。神は最善である。したがって神がこの世界を作ったのであるとすれば、この世界もまた最善のはずだ。戦争とか災害があるけど、これは神の配慮であって、必ず最善につながっている。
  • 最善説の支持者はこの現実に間違いは無いと考え、すべての苦しみや悲しみに意味があると考える。批判者はそうでないと考える。何の意味もなく無駄に苦しめられ殺される人もいると考える。重要なのはその対立である。どちらが正しいかという議論は証明することもできないので意味がない。だから重要なのはその信念が実践に与える影響だ。ライプニッツは間違いはないと信じた方が人が幸せになれると考え、ヴォルテールは逆に間違いがあると考えなければ人は誠実に生きることができないと考えた。ヴォルテールはまさにその誠実さを証明するためにこそカンディード書いた。
  • 観光客の哲学の基礎固めの2人目はカント。永遠平和のためにの3つ目の条件が観光客の哲学に関連深い。以下に永遠平和設立のための3つの条件を書く。
    1. 各国家における市民的体制は共和的でなければならない。
    2. 国際法は自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。
    3. 世界市民法は普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。
  • 永遠平和の条件の1つ目2つ目は極めて単純な話で、成熟した市民が集まって成熟した国家を作り、成熟した国家が集まって成熟した国際秩序を作りその結果永遠平和が訪れると言う成熟の連鎖の物語。しかし見つめが難しい。普遍的な友好とはなんだろうか。カントは興味深いことを述べている。問題とされているのは人間愛ではなく、権利である。つまり重要なのが感情の問題ではなく権利の問題なのだ。具体的にはカントは訪問権について語る。国家連合に参加した国の国民は互いの国を自由に訪問し合うことができなければならない。これはあくまで訪問の権利だけを意味し、客人として扱われ歓待される権利は含まない。この訪問の権利の規定は観光の権利の規定であるかのように読める。
  • そもそも永遠平和のためには1つ目の条件と2つ目の条件を満たしていれば平和を保てそうな気がする。しかし3つ目のの条件はある。つまり1つ目の条件2つ目の条件の弱点を補うものとして構想されたはずであることを示唆している。ではどのような弱点を補おうとしたのだろうか。
  • 1つ目の条件と2つ目の条件を満たせば成熟した国家間ができ、平和が訪れると言う話だが、それは成熟していない国は国際秩序から排除して良い、むしろ排除すべきだと言う発想を呼び起こす。これは現実に起きており、世界はしばしばならず者国家と言う表現を使うようになった。イラクやイラン、北朝鮮イスラム国などだ。
  • 今や国際政治の軸をなす対立は、国家と国家の対立ではなくむしろ国際秩序とならずものたちの対立である。ならず者国家は国家としての成熟つまり国際秩序への参入を拒否している。しかし国際社会はその拒否そのものを拒否している。
  • 現在の国際社会はこの悪循環に対応できてないし、基礎となる理論も存在しない。20世紀後半の人文思想は他者への寛容を解いてきた。しかし寛容になるためには相手もある程度成熟していないと困ると言う真っ当な反論に対して、従来の他者論は何も言い返すことができない。
  • このジレンマに対して3つ目の条件が1つの道を照らす。カントは国家と法だけでは永遠平和の設立には不十分であると考えており、利己心と商業精神が、各国家を国家連合の設立へと誘うと考えている。
  • 観光客は自分の利己心と旅行業者の商業精神に導かれて他国へ訪問するだけである。それにもかかわらずその訪問が平和の条件になる。具体例を出すと、日本と中国あるいは日本と韓国の関係は常に政治的問題を抱えているが、相互に行き来する大量の観光客によって関係悪化は抑制されている。したがって中国といくら国交が悪化しても中国からの観光客を受け入れるなければならない。ロシアとの関係が悪化してもロシアからの観光客を受け入れなければならない。カントの訪問権はそもそも外交官をモデルとしたが、観光客をモデルとしたほうが理解しやすい。
  • 観光客の存在が作り出す友好の可能性について哲学がどのような議論を行なっているのだろうか。ここで哲学者カールシュミットを召喚。カールシュミットの哲学で重要なものが、政治的なものの概念、である。シュミットによると、政治が政治として機能するのは友と敵が峻別されている時だけという理論で、友敵理論と呼ばれている。美学の判断は美と醜、経済学の判断が益と損のように政治は友と敵の二項対立の上に成立する。
  • 友と敵の対立とは何か?戦争のような極限状態において友を守るために敵を撲滅する判断をする。これがシュミットの考える政治の本質。そしてその判断には美醜、善悪、損益といった別の二項対立は関わってはならない。たとえ倫理的に正しくなく、経済的に損になる行為でしかなかったとしても、友の存在を守るためにやらねばならないことがあるとすれば、断固それを遂行するべきであり、それが政治だというのがシュミットの考え。友敵の区分は私的ではなく公的。政治は無根拠に敵を定め、その上で政治は共同体の存続を第一に考え、必要とあらば他のあらゆる判断を停止する。
  • しかしシュミットの思想は極めて危険である。これは独裁を肯定し、敵の撲滅を肯定し、しかしそこに一切異論の入る余地を残さない思想である。この思想に導かれシュミットはナチスの独裁を支持しユダヤ人の排除政策を推進することになった。
  • 友敵理論は実に危険な思想である。だけど単純に危険だと言う理由で排除してはならない。なぜなら国家とは何か人間とは何かを考え抜いた結果として論理的に導きだされた理論だからだ。カントとシュミットの間の哲学者ヘーゲルを召喚。ヘーゲルは国家を市民社会の理性にあたるものと捉えた。国家はその人々が1つの土地に住み、1つの歴史を共有し、1つの社会を作る1つの民族なのだと言う自己認識を抱いた時に初めて生まれる。この考えは近代政治思想の基礎をなしている。
  • 人は家族から離れ、市民を経て、最後に国民になることで初めて成熟した精神に到達する。個々人の最高の義務は国家の成員であることであるとヘーゲルは記している。
  • 人間は自分のことしかわからない、しかし他方で1人では生きていけない。ではどうやってその折り合いをつけるのか? ヘーゲルは国民になる事の必要性を持ち出その疑問に答えようとした。人間がきちんとした人間になるためには家族の一員であることや。市民社会で他社に触れる事とは別に、何らかの上位の共同体に属する事が絶対に必要だと考えたのだ。ルソーのように、人間は人間が好きでなく社会を作りたくない、にもかかわらず人は社会を作る、なぜかと問うた。ヘーゲルはその問いに対して人間は国家を作り国民になることで社会を作りたくなかった未成熟な自分を克服することができると答えた哲学者。
  • シュミットの友敵理論はヘーゲルの人間観を突き詰めたところに現れている。国家がなければ人間はない。政治とは国家を存続させる営みである。そのためにシュミットは友敵を峻別したのだ。シュミットがグローバリズムを拒否するのはそれが友敵の区別を抹消し、政治そのものを抹消するからだ。
  • 友敵の対立を潜り抜けないと人は人間になりえない。だとすれば村人でも旅人でもない観光客は、そもそも人間未満の未熟な存在と言うことになる。友敵理論の存在やヘーゲルパラダイムが根底にある根底にある近代の神の思想には、人間についてまともに考えようとすればするほど観光客については考えることができないと言う構造がある。
  • 近代思想は人間は友敵の対立をくぐらないと成熟しないと述べた。だとすれば観光客の哲学を設立するためにはその対立をくぐらない別の成熟のメカニズムを探る必要がある。言い換えれば国会の所属を介さずに、普遍と特殊を重ね合わせるメカニズムを考える必要がある。
  • 観光客の哲学と友敵理論の対立関係を多角的に捉えるべく、2人の思想家を参照し、2つの新たな言葉を導入する。
    1. 1つ目の言葉は動物である。この動物の概念はアレクサンドルコジェーヴと言うフランスの思想家から借りている。コジェーヴはシュミットより一回り年下の人物だ。後10分が言うには人間が人間として生きる歴史は本質的にナポレオン戦争で終わっていたのであり、20世紀の2つの対戦は現在がすでにポスト歴史に入っていることを確認させるものに過ぎなかったと述べた。人間の歴史が終わるとはいかにも奇抜な上に聞こえるが、この背景にもシュミットの思想と同じくヘーゲルの独特の人間観が横たわっている。ヘーゲルを読解したご自分の考えでは、人間とは自らの存在をかけて他人の承認を認め、環境を変革し続ける精神的な存在に他ならない。人間は自己の人間的欲望、すなわち他者の欲望に向かう自己の欲望を充足せしめるために自己の生命を危険にさらしそれによって自己が人間であることを証明する。他人の承認を求めず、与えられた環境に充足ひている存在は、たとえ生物学的には人間であってももはや精神的には人間とは言えないだろう。これがヘーゲルコジェーヴの考えである。動物と言う言葉はポスト歴史についての記述に登場する。歴史の週末の後、人間ははしやトンネルを建設するとしてもそれは鳥が子を作り雲がクモの巣を張るようなものである。ポスト歴史の動物であるホモサピエンスと言う種は極めて豊かで安全な暮らしを過ごすことになり、社会活動をし、文化を作るだろうが、それはもはや人間の活動とは言えず、むしろ動物の戯れに近い。ジャンクフードと娯楽に囲まれ、政治も芸術も必要とせず、次々と提供されて新商品に快楽をゆだねているだけのアメリカ的な消費者が動物にみえるという指摘はもっともなことだろう。シュミットのコジェーヴともに、人間と人間の生死をかけた闘争がなくなり、国家と国家の理念をかけた戦争が解消され、世界がひとつになり消費活動しか存在しなくなった時代における人間の消失を問題にしている。シュミットはそれを政治の喪失と呼び、コジェーブは歴史の終焉と呼んだ。人間には必ず共と敵きがいる。そして国家がある。しかし動物には友も敵も存在しない。そして国家も存在しない。国家を離れ民族を離れ、他者の承認も歓迎も求めず、個人の関心だけに導かれてふわふわと行動する観光客は、以上の点でまさに動物だということができる。
    2. 2つ目の言葉は消費である。それに関連して労働と匿名も鍵となる。こちらで見たいのはハンナアーレントアーレントが1958年に人間の条件と言う著作を出版しているか、ここで問題とされているのもシュミットやコジェーブと同じく人間の消失である。彼とは人間には生物学的な人間であることとは別に人間として生きるための独特の哲学的条件があると考えた。現代の人間はその条件を失っていると考えており、人間の条件は人々がその条件を取り戻すために書かれた書物である。アーレントは人間が行う社会的な行為にを3つに分類しており活動と仕事と労働である。活動と仕事は人間の声に意味を与えるが労働は意味を与えない。しかし現代社会では労働が優位になっているのが問題だと議論を立てたのである。労働においてアーレントの言葉を借りれば顔のない生命力が売買されているに過ぎない。活動の本質は互いに顔を曝し、差異を認め合って上での言語的なコミニケーションにあるので必ず他者の存在を要求する。労働の本質は、人間が顔をなくし、人数と時間で計量される生命力を提供することにある。人間は名を曝し、他者と議論し、公共の意識を抱く時に初めて人間であることができる。けれども匿名で他者との議論もなく、生命力を自分1人の賃金と交換しているときには人間であることができない。これが人間の条件の基礎を懐概念対立である。しかしアーレントの哲学は大きな弱点を抱えている。なぜならば彼女がモデルとしていた古代ギリシャ都市国家奴隷制度の上に成立していたものだったからである。
  • 今挙げた哲学者は、19世紀から20世紀にかけての大きな社会変化の中で改めて人間とは何かを問うた思想家である。シュミットは友と敵の境界線を引き政治を行う者こそが人間だと考え、コジェーヴは他者の承認をかけて逃走するものが人間だと考え、アーレントは広場で議論をし公共作るものこそが人間だと答えた。
  • 観光客は大衆であり労働者であり商社である。観光客が素敵な存在であり公共的な役割を担わない。観光客は匿名であり訪問先の住民とは議論しない。訪問先の歴史にも関わらない。政治にも関わらない。観光客はただお金を使う。そして国境を無視して惑星上を飛び回る。友も作らなければ敵も作らない。そこにはシュミットとコジェーブとアーレントが人間ではないものとして思想の外部に弾き飛ばそうとした、ほぼ全ての性格が集まっている。観光客はまさに20世紀の人文思想全体の敵なのだ。だからそれについて考え抜けば必然的に20世紀の思想の限界は乗り越えられる。ヘーゲルが家族から市民へ、そして国民へと言う弁証法でしか人間を定義できなかったのだとしたら、観光客から立ち上がる人間の定義はありえないものか。それを東さんは考えている。
 
第3章 2層構造
 
  • 今の世界はヘーゲルが提唱した単線的なものとは大きく異なっている。国家について考えることが政治について考えることではない時代だ。
  • カントは国家は人格だと考えた。ヘーゲルは国家は市民社会の自己意識だと考えた。この定義を組み合わせると、人間に身体と精神があるように、国民国家には市民社会と国家があるというイメージが導かれる。国民国家は国家と市民社会、政治と経済、上半身と下半身、意識と無意識の2つの半身からなっており、カントとヘーゲルは前提の上で国家が市民社会の上に立ち、政治の意識が経済の無意識を押さえ込んで国際秩序を形成するのが人倫のあるべきすがただと考えた。ナショナリズムの時代においてはこの2つの半身が合わさり、1つのネーションが構成されていた。だからこそネーションがすべての秩序の基礎となりえた。けれども21世紀の世界ではまさにその前提こそが壊れているのである。政治はネーションを単位に動いている。けれども経済はネーションを単位としてない。商人は世界中の消費者に商品を売ってお金を設けている。
  • 現代は決してナショナリズムの時代ではないが、グローバリズムの時代でもない。ナショナリズムグローバリズムが政治と経済の2つの領域それぞれ割り当てられ共存している。東さんはそれを2層構造の時代と名付けた。経済がつながるのに政治はつながらない事態。欲望はつながるのに思考はつながらない世界。下半身はつながっているのに上半身はつながりを拒む時代。21世紀の世界は人間が人間として生きるナショナリズムの外、人間が動物としてしか生きることのできないグローバリズムの層、その2つの層が互いに独立したまま重なり合った世界だと考えることができる。
  • 観光客の哲学とは、グローバリズムの層とナショナリズムの層をつなぐヘーゲル的な成熟とは別の回路がないか、市民が市民社会にとどまったまま、個人が個人の欲望に忠実なまま、そのままで公共と普遍につながるもう一つの回路はないかその可能性を探る企てである。
  • リバタリアニズムとはリベラリズムと違い、大きな政府に対して否定的である。リバタリアニズムは個人の自由を尊重するので、時に無政府主義に近づくものである。リバタリアンの国家は、政治=人間の層と言うよりも、むしろ徹底して脱政治的な、経済=動物の層に属するメカニズムとして考えられており、国家について民間企業と同じように論じることができる。だからヘーゲルパラダイムに縛られていないのである。そのために新たな政治思想の萌芽が宿っている。観光客の哲学の萌芽になるかもしれない。
  • リバタリアニズムは、1971年に刊行されたジョンロールズの正義論によるリベラリズムの整備への批判としてノージックにより登場した。
  • リベラリズムは普遍的な正義を信じたし、他者への寛容を信じた。けれども20世紀後半に急速に影響力をしない今ではリバタリアニズムコミュニタリアニズムだけが残されている。リバタリアンには動物の快楽しかなく、コミュニタリアンには共同体の善しかない。このままではどこにも普遍も他者も現れない。それが僕たちが直面している思想的な困難である。
  • 観光客の哲学とは、政治の外部から立ち上がる政治についての哲学、動物と欲望から立ち上がる公共性についての哲学、グローバリズムが可能にする新たな他者についての哲学を意味している。
  • マルチチュードの概念にある適切な変更を加えれば、本書が必要とする観光客の概念に生まれ変わると東さんは考えている。そしてこれが新たな政治思想の出発点になると考えている。
  • ネグリとハートはグローバル化が進む冷戦後の世界を「帝国」と呼んだ。帝国とはグローバルの経済的あるいは文化的な交換をスムーズに機能させるため、国民国家とは別に、国家と企業と市民が共に作り上げる新たな政治的秩序を意味している。国民国家は経済と文化を管理下におけないと言うのが、今までの前提知識。グローバル化が生み出す秩序こそが帝国であり、覇権国家が帝国と言うわけではない。
  • 観光客の哲学と、ネグリたちの帝国との差異は、ネグリたちが国民国家の体制から帝国の体制への移行について考えたことに対し、観光客の哲学は両体制の共存について考えていること。
  • 規制訓練とは権力者が命令し懲罰を与えることで対象者を動かす権力のこと。生権力とは対象者の自由意志を尊重しながらも、規制を変えたり価格を変えたり環境を変えたりすることで、結果的に権力者の目的通りに対象者を動かす権力のこと。帝国では国民国家の体制では規制訓練が優位で、帝国の体制では政権力が優位であると書いている。
  • マルチチュードとはもともと多様性を意味する英語の抽象名詞であり、それほど良い言葉ではなく、むしろ衆愚のニュアンスの強い否定的な言葉だった。しかしネグリたちは帝国の内部から生まれる帝国の秩序そのものへの抵抗運動をひどく指す言葉として捉え直した。マルチチュードはただの抵抗運動と違い、帝国自身が生み出したものを積極的に利用し抵抗する。
  • マルチチュードの文脈において、政治的なものの自律性を社会的・経済的なものから切り離しで提示しようとする理論にはもはや何の意味もないとネグリらは断言する。
  • マルチチュードの概念には欠点がある。それは、マルチチュードの力がどのようにして現実の政治と結びつくのかが、デモがどのようにして政治を動かしていくのかが、ネグリたちによって示されてない点だ。
 
第4章 郵便的マルチチュード
 
  • 観光客とは、帝国の体制と国民国家の体制の間を往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在の名称。ネグリたちが提案したマルチチュードの概念に近い。しかしマルチチュードの概念には2つの欠点があった。観光客の概念はこの欠点を克服した上で作られなければならない。
  • 郵便と言う概念は、存在し得ないものは端的に存在しないか、現実世界の様々な失敗の効果で存在しているように見えるし、またその限りで存在するかのような効果を及ぼすと言う、現実的な観察を指す言葉である。この本では失敗のことを誤配と呼ぶ。〒と誤配の概念について詳しく知りたい人は、存在論的、郵便的を読むこと。
  • 否定神学マルチチュードならぬ郵便的マルチチュードの概念を考える。郵便的マルチチュードこそが観光客であると、この定義を東さんは提案したい。否定神学的なマルチチュードは連帯しないことによる連帯を夢見るしかなかった。しかし郵便的マルチチュードは、連帯し損なうことで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまう、そのような錯覚の集積が作る連帯を考えたいと思う。
  • 郵便的マルチチュードのコミニケーションは、否定神学マルチチュードのコミニケーションと異なり偶然に開かれている。観光客は連帯がしないか、そのかわりたまたま出会った人と言葉を交わす。デモは敵がいるが、観光には敵がいない。デモは友敵理論の内側にあるが、観光はその外部にある。否定神学マルチチュードは無から生まれ無によってつながっていた。郵便的マルチチュードは誤配から生まれ誤配によってつながる。
  • 僕たちは常に、同じ社会=ネットワークを前にして、スモールワールドなかたちとスケールフリーな次数分布を同時に経験している。そうであるならば、2つの経験から、2つの秩序、2つの権力の体制が生まれるとは考えられないだろうか。
  • 人類社会が1つのネットワークである限り、そこには必ずスモールワールドの秩序を基礎とした体制と、スケールフリーの秩序を基礎とした体制が並びたつ。ナショナリズムの時代に戻ることができないが、かといってグローバルリズムの時代に完全移行すること思ってきない。
  • グローバリズムへの抵抗の新たな場所を、帝国の外部に求めるのでもなければ、帝国の内部に求めるのでもなく、むしろ帝国とその外部の、すなわちスモールワールドとスケールフリーを同時に生成する誤配の空間そのものの中に位置づけることができるのではないだろうか。誤配をスケールフリーの秩序から奪い返すこと、それこそが抵抗の基礎だと考えられないだろうか。これが東さんの提案。再誤配の戦略こそが、この国民国家=帝国の思想家の時代において、現実的で持続可能なあらゆる抵抗の基礎に置かれるべき必要不可欠の条件のように思われる。
  • 僕たちはあらゆる抵抗を誤配の再上演から始めなければならない。これを観光客の権利と名付けよう。
  • もし憐れみがなければ、人類はとうの昔に滅びていただろう。人間は人間が好きではなく、人間は社会を作りたがるはずがない。しかし作る。その理由は人間には憐れみの感情があるから。憐れみこそが社会を作り、そして社会は不平等作り。観光客の哲学と誤配の哲学であり、連帯と哀れみ哲学。僕たちは誤配がなければ、そもそも社会すら作ることができない。
 
第2部 家族の哲学
 
  • 個人でも国家でも階級でもない10第4のアイデンティティーの発明はるいが発見が必要である。観光客の哲学の構想は、最終的にはこの課題にたどり着く。
  • 観光客がどこにすべき新しいアイデンティティーとしての東さんが考えている候補は家族である。家族の概念を再構築軽いが脱構築して、観光客の新な連帯を表現する概念に鍛えあげられないかと考えている。
 
第6章 不気味なもの
 
  • 人は両親なり教師なるよ真似るだけでは大人になれない。彼らがなぜそのような振る舞いをするのか、そのメカニズムを理解することで初めて大人になる。
  • 観光客の視線とは、世界を写真あるいは映画のようにではなく、コンピューターのインターフェイスのように捉える姿勢なのではないだろうか?そこにはイメージもあればシンボルもあり、そして解読しなければならない暗号もある。
 
第7章 ドストエフスキーの最後の正体
 
  • ドストエフスキーは、信仰が失われ、正義が失われた時代に置いて人がテロリストにならないためにはどうすれば良いのか、そのことばかりを考えていた小説家だった。
  • 社会主義者から地下室人、そしてスタブローギンへ、理想主義者からマゾヒストへ、そしてサディストへ。社会を変えたいと願う人間から、世界を変えるなんて偽善だと顔を赤らめて罵る人間、そして世界なんて変わっても変わらなくてもいいから好きなことをやれば良いのだとうそぶく人間へ。ドストエフスキイ弁証法は悪霊でそのような第3の主体にたどり着いた。
  • スタブロギンの無関心病からの解放の必要性こそをドストエフスキーは訴えようとしたと考えるべき。スタブロギンのニヒリズムを超えたその向こうに現れる最後の段階があるはず。
 
 
☆☆☆
再読してだいぶ理解できた、ような気がする。
数週間後にもう一度読みたいね(`・ω・´)”いや〜本当に知的好奇心がくすぐられる本ですわ。超お勧めします!
 

【読書メモ】お母さんの敏感気 モンテッソーリ教育は子を育てる、親を育てる

お母さんの敏感気 モンテッソーリ教育は子を育てる、親を育てるを読んだので、メモに残します。

 

お母さんの「敏感期」―モンテッソーリ教育は子を育てる、親を育てる

お母さんの「敏感期」―モンテッソーリ教育は子を育てる、親を育てる

 

 

 
  • 生物の幼少期には敏感期というものがあり、一定のことに対して感受性が敏感になる。幼児教育の改革者、マリアモンテッソーリが人間にもあることを見出した。
  • 敏感期のいろいろな特徴、その時期にだけあらわれる子供の強い願望や傾向を知っておくことによって、子育ての姿勢も変わってくる。
  • 子供に何のためにお稽古を習わせるのか?そのお稽古をしてその子が将来良かったと思えるかどうか?どんな大人になってほしいと自分を考えているか?何のためにお稽古事をさせること言ったら、集中して1つのことをする喜びを知るためであると今は断言できる。
  • 子供が幸せそうな笑顔する、その瞬間に気づくことが大切。どうやって子供がそんなに幸せそうな顔をする機会を与えることができるか、それを考えていく。
  • 子供が何かを集中しているの見かけたら、よく見守りましょう。それが出発点となる。
  • モンテッソーリは子供の不機嫌な反応は、敏感期にある子供が何かに強い興味や関心を抱いたにもかかわらず、大人の鈍感さによってその興味が断ち切られた時に現れるのだと説明します。
  • いつも決まった順番が良い、いつもと同じ場所じゃないと嫌だ、と言うふうに秩序に非常にこだわる時期が2、3歳ごろにある。モンテッソーリはこれを秩序感にたいする敏感期と名付けた。この時期は子供がこの世界を生きていくための羅針盤を手にする時期。自分を取り巻く環境全体を1つに纏めたり、相互関係を理解しようとしている。
  • 文字を書くのは何歳ごろがいいのか?という疑問の前に、子供の指先が字を書くのに必要ないろいろな運動を身に付けさせる方が大事。運動の敏感期の時の4歳前後の時に指先をしっかり使う機会をたくさん提供するべき。
  • 子供の敏感期の時期を知らずに育ててきました。しかしモンテッソーリの時代から科学が大きく進化しており、人間の脳は死ぬまで訓練によって鍛えることができると分かっています。昨日は何歳であっても環境によってまた訓練によって変化する力を持っており、これが現代の科学の素晴らしい発見だ。
  • 子供の敏感期のエネルギーを有効に利用するためには、母親が、何歳の時はどんな敏感期にいるか科学的な根拠に基づいて知っておくべき。必要最低限の知識は、子供がどう動けばいいかなどの動き方を知りたがっていることを知っておくことです。
  • 自分が自分の行動の主人公であり大望と、ありとあらゆる動き方を身に付けたい望み心の中に渦巻いているこの時期にはもう一つの内部のエネルギーが強く働きだしています。それは知性のエネルギーです。
  • 知性の働きは一言で言えば区別すること。まず分ける。次に分けたものを集める、比べる、合わせる。別の言葉で言えば、分析、集合、比較、対応。
  • 多くの教育関係者、素晴らしい子育てをした親が言う最も大切な子育てのキーワードは自立。
  • 大人にとって掃除をすることは、きれいにすることつまり効率を求めるばかりで目的は結果。しかし子供にとって掃除をすることが過程を楽しむことである。そうすれば箒をうまく使えるのか、どうしたらこのゴミをうまくつかんでゴミ箱に捨てれるのかなと。
  • ブルームと言うアメリカの教育学者が、世界のトップクラスになった人たちが小さかった時どんな教育を受けたかを調査した。その人たちに共通していた事は、親たちは家庭の雑用や責任を4歳位の時から子供に責任を持って自律的に行動できるように繰り返し強調していたと言うことです。
 
☆☆☆
 
僕の教育感とそっくり。
子を持つ人には必読の本。この本の内容を全て鵜呑みにすれば良いと言うわけではなく、参考にするべき。
 

【読書メモ】 書く力 私たちはこうして文章を磨いた 池上彰 竹内政明

 
書く力 私たちがこうして文章を磨いたを読んだのでメモに残そうと思います。

 

書く力 私たちはこうして文章を磨いた (朝日新書)

書く力 私たちはこうして文章を磨いた (朝日新書)

 

 

  • 面白いなぁと思う文章は、半径2、3メートルの世界について書いた部分がほとんど。自分の小さな話から入って大きな話につなげていくこうしたスケールの違う話をつなげることで文章の展開は予想のつかないものになる。
  • 文章のトレーニング方法としては、悪いことをした犯人の弁護士になったら自分がどうするかと言う思考実験をすること。絶対に正しいと考えられている事についてあえて異議を唱えてみる、そして世の中の常識を捉え直すことによって、物事を多角的にとらえることができるようになる。
  • 最後の数行にほんの少し柔らかい文章を書くことで、説教臭くならない文章にすることができる。
  • うまい文章を書くためにはたくさん本を読む。そして好きな本を見つけて、なぜこの文章を良い文章だと思ったのか自分なりに分析してみる。
  • 落語は文章書く人間にとって本当に勉強になる。
  • 何かを褒める時でも、何かを批判するときは、書き手の感情を前面に押し出してしまうと読者が引いてしまう。控えめな表現を練習する癖がある。
  • 言葉を言い換える、言い換え用語のストックを用意する。
  • ことわざや慣用句をパロディにして、カッコつけ過ぎないように、こっそり使う。
  • 書き写すことこそが最高の文章鍛錬。
  • 簡潔に書くと言う事と、短く書くと言う事の間には大きな距離がある。
 
☆☆☆
 
とても面白い対談内容でした。文章書いていこうと思う人ならば読んでいて参考になることばかりだと思います。だけど内容的には初心者向けではなく、僕みたいなしょうもない文章しか書けない人にとっては、かなり難しい内容だとも思います。
だけど何事も上達するためには、少し背伸びすることが大事なので、読んで損することは絶対にありません。この本に書かれていた複数のテクニックから、1つでも身に付けたいと思います。と言いつつ、この文章自体が、全くこの本の内容を活かせてないので、「あんたこの本読んだ意味ないでしょ」と言われたら、ぐうの音も出ません。
 

【読書メモ】世界を変えた10冊の本 池上彰

池上彰さんの世界を変えた10冊の本を読んだので、メモに残します。
 

 

世界を変えた10冊の本 (文春文庫)

世界を変えた10冊の本 (文春文庫)

 

 

 
  • この本があるからこそ、イスラエルは今も存続し、中東に確固たる地歩を築いていると、池上さんは考える。
  • なぜユダヤ人は迫害されるのか?ユダヤ教の改革運動をしたイエスは死刑にかけられます。本音ではイエスを殺したくなかったローマ帝国から派遣されたピラトは、ユダヤの人々に対して、イエスを十字架にかける必要はあるのか?と尋ねます。すると人々はイエスを十字架にかけろと叫び、その血の生協は我々と子孫にあると言ったのです。だからキリスト教徒の中には子孫は報いを受けて当然だと考える人がいるのです。
  • それからユダヤ人はヨーロッパでも迫害を受け、卑しい職業とされていた金融業にしかつけませんでした。やっとつけた仕事を頑張って財をなすと、今度はそれを疎まれ、ますます、嫌われたのです。
  • 第一次大戦で大敗したドイツは、仮想敵を作ることで国民をまとめようとした。その仮想敵の標的となったのがユダヤ人。ドイツはアーリア人という優れた民族なのにユダヤ人によって貶められていると考えた。
 
聖書
 
 
 
  • ユダヤ教旧約聖書の実、キリスト教旧約聖書新約聖書2つの聖書としている。イスラム教はさらに1つ加え3つを大事な経典にした。それがコーランです。ただし最後のコーランが最も大切な存在だと考えている。何故かと言うと神様の言葉を扱った預言者であるモーセもイエスから作られた旧約聖書新約聖書もあるのに人間は神様の言いつけを守らなかった。だから最後に神はムハンマド預言者と選び、彼に最後の神の言葉を伝えたと言うわけ。だからコーランを1番大事にしている。
  • キリスト教と同じようにイスラム教でもやがて世界の終わりが来ると信じられている。世界の終わりが来ると死者たちは地中から起こされて神の前に引き出され裁きを受けます。生前に良いことを多くやっていれば天国に行きますが、悪いことが起きれば地獄に行きます。
  • 一般の人は死んだら世界の終わりが来て、最後の審判を待ち受けるのですが、アッラーのために戦って死んだ人は、すぐに天国に行ける。つまりジハードで死ぬ事は天国の特急券
  • ジハードを日本語で聖戦と訳されるが、もともとは努力と言う言葉から生まれており、イスラムの教えを守る努力がジハード。
  • イスラム原理主義自体は暴力やテロと関係なく、貧しい人を援助したり、医療活動をする組織もあるので、多くの住民に支持されている。ただし、イスラム復興運動のためなら暴力も許されると考える組織が生まれた。
 
 
  • この本は宗教が経済活動に思いもかけない影響を及ぼしたという本。
  • プロテスタントカトリックではプロテスタントの方が企業の管理職や高等教育を受けること6匹のが高かった。ウェーバーはこれでプロテスタント支配によって資本主義の精神が生まれたのではないかと考えた。
  • 19世紀半ばまでヨーロッパの人々は生活できるだけの収入があればそれ以上に働こうとはしなかった。しかし資本主義の精神を持った人たち、ガンガン働く者たちが出てきた。その理由が働くことこそが神様にとって信仰を示すものであり、天国に行くことが約束されると考えたから。
  • 富が危険なものとみなされるのは、怠惰な休息や罪深い生活の境地の誘惑となる場合だけなのである。そして富の追求が危険なものとみなされるのは、将来を心配なしに安楽に暮らすことを目的とする場合だけである。職業の義務を遂行することによって富を獲得することは、道徳的に許されているだけでなく、まさに命じられているのである。
  • 資本主義の精神はキリスト教プロテスタントの倫理によって生まれた。これがマックスウェーバーの分析である。しかしプロテスタントがアメリカに渡るとやがて職業の義務だけが残り、宗教的なバックボーンは消滅してしまったとウェーバーは指摘する。禁欲的なプロテスタントの倫理が強欲の資本主義の精神を生んだと言うことで、この本は大きな衝撃を与えた。
 
 
  • マルクスの理論は労働価値説と呼ばれる人間の労働があらゆる富の源泉であると言う考え方。
  • 資本家は労働者を雇って働かせて新しい価値を生み出す。価値は蓄積されて資本となり、資本の奴隷になった資本家は利益を上げるために無秩序の競争に突入し恐慌を引き起こす。貧富の格差が拡大し、困窮した労働者は団結して革命を起こし資本主義を転覆させる。
  • 物には2つの価値がある。1つが使用価値でもう一つが交換価値。ただなぜ使用価値を持っている商品が一定の比率によって交換できるかというと、そこにはある共通したものが存在しているからに違いない、それが人間の労働ではないかとマルクスは考えそれを労働価値説と呼びました。林檎やみかんも栽培をするのに人間の労働が注ぎ込まれています。鉄鉱石から鉄を精製し、ダイヤモンド地下から掘り出す、いずれも人間の労働によって価値を得ています。使用価値または財は、抽象的に人間の労働がその中に対象化されている、あるいは受肉しているからこそ価値を持つ。
  • 労働者を長時間働かせて利益をあげる。これが絶対的剰余価値の生産。一方、労働力の再生産費を安くすることによって利益を上げる。これが相対的剰余価値の生産。
  • マルクスは、資本主義が崩壊した後の経済はどうなるのか、資本主義に変わる社会主義共産主義とはいかなるものなのかについては書いてなかった。
 
道しるべ
 
 
 
  • 人間たちによって作り出された農薬によって自然界は汚染されやがて野生の生き物は死にたい。春になっても生き物の声が聞こえない。沈黙の春がやってくるかもしれない、という問題提起の本でした。
  • 農薬の危険性について論じてきた彼女ですか、農薬全廃を主張したわけではありません。必要最低限の農薬を使うべきだと提案しています。
 
 
  • 地球上の生き物は神が創造したものではなく、自然界で進化したものだ。この理論だと人間は神が創造したのではなく猿から進化したことになってしまいます。もちろんダービンの理論では人間は猿から進化したのではなく、人間と猿は共通の祖先から枝分かれしたということ。キリスト教徒でこの考えに反発する人たちがいる一方、受け入れる人たちも出てきた。生き物が進化していく設計図を最初に想像したのは神であると言う考え方で受け入れ始めたのだ。
  • 社会ダーウィニズム。適者生存を社会に当てはめると弱いものは死ね強いものが生き残ると言うことである。この考えを当時の資本家立ら歓迎し、この思想は弱い立場の者への社会福祉を否定することにつながりました。社会福祉を充実させると、本来淘汰されるべき企業や個人が生き残り、経済社会に悪い影響与え、社会全体が弱くなってしまうと言うわけ。
  • また白人たちがアジアやアフリカで先住民を支配することを正当化する理論にもなりました。力のあるものがそうでないものに打ち勝つのは自然の摂理であると言う思想。
  • 他にも優生学も生まれた。障害のあるものや精神疾患のある者等は環境に適応できない劣った生き物だとして社会から隔離する対象になると言う恐ろしい思想。
 
 
  • 景気が悪くなったら政府が公共事業等で施術を増やして経済を活性化させる。金利を下げて企業の投資を活性化させる。今では景気対策としての常識となっていますか、かつては常識どころかとんでもない話でした。これを世の中の常識にしてしまった方がジョンメイナードケインズ雇用、利子および貨幣の一般理論と言う書物です。
  • 当時の考えでは景気が悪化すると税収が減るので、それに合わせて政府の支出を減らしました。これによって大量の失業者が生まれても、自由放任が正しいと考えるものでした。これに対してゲインズは時代遅れな考えだとして、それまでの主流の経済学を古典派とより激しく批判しました。
  • 経済活動を民間に任せておくと、不況になった時に企業が守りの姿勢になって新たな投資をしようとしない。これでは景気が悪くなるばかりなので、こういう時に政府が投資をすれば、投資が投資を呼ぶ形で経済が活性化する。これが乗数効果と呼ばれるもの。
 
資本主義と自由
 
  • 小泉純一郎首相の時代、竹中平蔵経済財政政策担当大臣とともに推し進めた改革は新自由主義路線とも呼ばれています。新自由主義思想を経済学においてうちたてたのは、アメリカの経済学者ミルトンフリードマンでした。
  • フリードマンの思想はリバタリアニズムとも呼ばれます。この思想を持った人がリバタリアン。この理念を一言で言えば、人に迷惑をかけない限り、大人が好きなことができる社会を目指すもの。麻薬だって合法化すれば闇世界の儲け口がなくなり犯罪が減少する。年金制度などの社会保障政策は政府がやるべきでなく民間企業に任せた方が効果的である。政府を信じず民間企業の活力に絶大な信頼を置く経済学者がフリードマンです。
  • ニクソン大統領とレーガン大統領にも経済政策を提言しているしイギリスのサッチャー首相にも大きな影響与えた。
  • 1962年に発行されたこの本で、世界の通貨の交換比率をアメリカのドルに固定している固定相場制を改め、需要と供給の関係によって交換レートが変動する変動相場制を提唱しています。当時は企業の提案として生の目で見られましたが、1971年、ニクソン大統領の時に変動相場制が実現します。今当たり前のような変動相場制がフリードマンによるものでした。
  • 政府はろくなことをしないから信用できない。それよりは個人の事を守ろう。これがフリードマンの思想。つまり小さな政府を求め、個人の自由を最大化しようとした。
  • 政府は安全保障や治安維持などの役割さえ果たしていればよくてそれ以上の事はすべきでない。また政府の権力は分散されるべきで、国よりも県、県よりも市にすることが望ましい。自分の住む街のやり方が気に食わない時、それが下水処理にせよ、区画整備にせよ、学校制度にせよ、さっさと別の街に引っ越せば良い。そこまでする人は滅多にいないにしても、その可能性があると言うだけで権力乱用を抑止する効果がある。
  • 教育バウチャーと言う言葉を最初に提唱したのもフリードマン。アメリカの公立学校の教育は非効率で質が低い。なぜなら公立学校が教育を独占しているからである。教育の質を高めるためには、管理の強化でなく、市場メカニズムを導入すべきだと提案したのです。バウチャーとはクーポンのことで学校に通う年齢の子供が居る家庭にはバウチャーを配り家庭は自由に通う学校を選択する。選んだ学校にクーポンを出すことで学校はそのクーポンを政府ないしは自治体に渡して資金を得ると言う仕組みです。クーポンの代金は公立学校の平均的費用が想定されています。
  • 累進課税に効果がないとフリードマンはいます。ケインズ理論では貯蓄しがちな高額所得者から累進課税によって資金を吸い上げこれを低所得者社会福祉の形で渡せば、低所得者は貯蓄率が低く商品に使うから、社会全体の消費が拡大し景気対策になると考えられています。しかしフリードマンは神考えます。累進課税だと毎年の所得税にかかるから、すでに財産を持っている裕福な人には関係がない。つまりこれから富を築くをとする人の重荷になる。経済はこれから富を築くをとする人が大勢いることによって活性化し発展するのだから累進課税は経済発展に水を差す。
  • 累進課税の代わりにフリードマンは一律税率を主張します。個人所得税として最も望ましいのは、基礎控除を上回る所得に対する一律税率の適用である。累進課税だと稼げば稼ぐほど収める税額も増えるから、労働の意欲が削がれてしまう。税制をシンプルにすることによって、節税や税逃れを封じることができ、税収はかえって増加する。これがフリードマンの主張です。
  • もう一つの社長が法人税を打ち切ると言うことです。企業が税金を納めるのではなく、お金は配当として株主に渡し、株主が自己の所得の中から税金として収めると言うわけです。
  • フリードマンの主張は年金制度にも及びます。年金による所得の再分配は、主に若い加入者から年配の加入者への分配と言う形で行われる。現在の高齢者は収めた以上の給付を受けており、この状況はしばらく続きそうだ。一方、現行制度では、今若い加入者が高齢に達した時に受け取る給付は明らかに少ない。このような再分配をどんな根拠で擁護できるのだろうか。年金があまりに専門的で運営も専門家にほぼ一任されているため、社会保障庁のような政府機関を議会からきちんと監督するのは不可能になっている。←びっくりするくらい日本に当てはまるね。
 
☆☆☆
 
フリードマンの本は読んでなかったので、とても面白く感じた。今度読んでみよう!
 
 

【読書メモ】史上最強の哲学入門 飲茶

飲茶さんの史上最強の哲学入門を再読したのでメモに残そうと思います。この本を最初に読んだのがもう2年前ぐらいかなぁー。哲学に興味が出てきた頃にちょうど読むことができ、スムーズに哲学の世界へと誘われたのでとても感謝している本です。

 

史上最強の哲学入門 (河出文庫)

史上最強の哲学入門 (河出文庫)

 

 

 
  • プロタゴラス。絶対的真理を否定し、価値観なんて人それぞれだよと言う考えを相対主義と言う。神話と言う絶対的な価値観が崩壊した時代において、相対主義を代表する哲学者がプロタゴラスです。当時の古代ギリシアは民主主義国家であり、政治家たちは相手を論破することが大切で、どんな人でも黒を白に、白黒に見せかけることができる相対主義哲学は、とても人気だった。例えばどんなに冷たい水でもさらに冷たい水と比較すれば暖かい水ということができる。相対化を行えばどんな主張にもメスを入れることができるのです。
  • ソクラテス。人それぞれさのような相対主義的な考えは絶対的な真理を探求しない考えである。こうなってしまうと口の上手い雄弁な政治家が強くなってしまい、つまり煽動政治家だけが国を動かすようになってしまう。プロタゴラスから相対主義の哲学を学んだ政治家たちは、見せかけだけの言葉をうまく操る、民衆から人気を得て、政治家になっていたのだ。この分修正時に陥ったギリシャに手強く出す男がソクラテスソクラテスは絶対的な真理を追い求める暑い人だった。だからソフィストと呼ばれる口だけの政治家にどんどん喧嘩を売っていた。ソクラテスの有名な言葉に無知の知があり、これは私は心理について何も知りませんと自らの無知をさらけ出し、だから一緒に真理について考えていこうと言うものである。ソクラテスによって恥をかかされた政治家たちは、ソクラテスを裁判にかけそして死刑を宣告されてしまった。ソクラテスの弟子のプラトンたちの計らいによってソクラテスは逃げることができたがソクラテスは逃げずに自ら毒杯を手に取りそれを飲み干し死んだ。命を賭けるに値する真理を追求するための男の生涯であった。この生き方は若者たちにとても影響を与えたのだった。
  • プラトンプラトンイデア論が有名だ。イデア論とは世界を理想の世界と現実の世界の2つに分けた考える。例えば僕たちは何か美しいものを見たとき美しいと感じる。これは教えられてもないのに感じる感覚だ。つまり美しいと言うイデアと呼ばれる本質があり、そのイデアの不完全なコピーが現実の世界にあるということだ。プラトンにとって哲学者とは究極の理想、つまりイデアを知ることを追求する人間のことだ。イデアを知ることができる優秀な哲学者が国王になるべきと言う鉄人思想をプラトンは持っていた。プラトンソクラテスの弟子だった。ソクラテスは民主主義の1つの結果として死刑を宣告された。賢い民衆、賢い政治家が民主主義で良い国を作ることもできるが、バカな民衆、バカな政治家が集まればすばらしい人間、ソクラテスのような人を殺してしまうのだ。このような経験もあり、アイディアを知る人間こそが国王になるべきだとプラトンは考えたのだ。プラトンは国家の未来のために才能ある若者たちを集め、哲人王を育成するためにアカデメイアを作った。これが後の大学の起源となる教育機関である。
  • アリストテレスプラトンが創設したアカデメイアの生徒の1人がアリストテレスであり、プラトンの学校で最も優秀な生徒であった。しかしプラトンの思想に、意を唱えた。簡単に言ってしまうとイデアなんてどうやって知ることができるの?結局のところイデアは現実の世界ではないんだから知ることはできない。だからアリストテレスは現実なるものを観察して定義した方がよっぽど役に立つものと考えた。そのような観察をあらゆるもので行い、抽出した特徴を体系的に分類し整理し世界を把握しようとする学問を作った。それ故アリストテレスは万学の祖と呼ばれている。アリストテレスイデアのような理想論を掲げるのではなく、現実に寄り添った国家の体制を作るべきだと考えた。アリストテレスは3つの政治体制を考えている。
    1. 君主制
    2. 貴族制
    3. 民主制
  • 君主制独裁制に陥りやすく、生属性は貴族の権力争いに発展しやすく、民主制は民衆が愚かだとだめな政治になる。そのような危険性をアリストテレスは遠の昔に考えていたのだ。
 
中世の哲学へ
アリストテレスの時代以降、哲学の進歩は止まり、宗教、つまりキリスト教が支配する中世の時代へと突入した。人間は理性だけでは真理には到達できない。だから神への信仰が必要なのだ、と言うふうに思想が進んでいた。しかしルネサンス宗教改革がおこり、信仰重視の時代から、理性重視の時代が戻ってきた。
 
  • デカルト。哲学者がそれぞれ自分勝手な意見を主張しあっているのが嫌だったデカルトは哲学も数学と同様に、誰もが正しいと認めざるを得ない確実なことをまず第一原理と設定し、そこから哲学体系を作り出していくべきだと考えた。デカルトはその第一原理を考えまくった。第一原理は誰もが疑うことのできないものでなければならない、いったいそれは何だろうか。デカルトは様々な物を疑いまくったが、疑えないものなどないように思えた。しかし、疑っている私がいると言う事だけは疑いないのではないだろうかということに気づいた。なぜならたとえ疑っている私の存在を疑ったとしても、やっぱり疑っている私が存在するからだ。こうしてできた第一原理がデカルトの有名な言葉、われ思うゆえにわれあり。デカルトは哲学の基礎となる絶対に疑いない真理を導き出した。
  • ヒューム。デカルトは第一原理までは素晴らしかったが、それ以降はおかしくなってしまった。例えば私の存在は確実なのだから、私が明晰に理解したり認識するものも確実に存在する。と、変な方向に行っちゃったので、デカルトの批判から生まれた哲学体系の1つにイギリス経験論がある。これは人間の中に浮かぶ知識や観念はすべて経験から来たものに過ぎないと言う考えの事だ。イギリス経験論完成させた男がヒュームである。デカルトの言う我ありの、我、とは結局のところ経験と言う知覚体験の集合体に過ぎないのだとヒュームは主張した。ヒュームは現実には存在しない観念のことを、過去の経験の組み合わせからできた複合概念と呼んだ。人間の想像力はこの複合概念によってペガサスとか神様とかを作り出すと考えたのである。ヒュームは科学現象も経験上の産物にすぎないと主張した。例えば炎が熱いと言うのはそういう経験があったからであって炎と熱いことにはホントは何の因果関係もないかもしれない。炎の近くにたまたま熱さを引き起こす物質が近くにあるだけかもしれないからだ。科学と言う学問はその経験上の思い込みを絶対化しているだけに過ぎないのである。
  • カント。ヒュームの懐疑を真っ向から受け止めそれを乗り越える心理を見つけ出したのがドイツの哲学者カントである。平の主張とは、すべての知識や概念は、人間が経験から作り出したものに過ぎないと言うことであった。でも人間というのは同じ経験をしている人なんてほとんどいない。でも学問を共通して理解できる。これは何でだろうか?そこでカントは考えた事は、確かに人間は経験から知識を得ている。だけどその経験の受け取り方には人間としての特有の形式があり、それは経験によらない先天的なものがあるということである。カントは人間は何かを見るときには必ず空間的と時間的にそれを見ているという経験の仕方について、人間共通の形式があることを見出した。例えば何かを見ると言う経験をするときに、どこどこの空間のどこどこの時間にあるものを見ているはずである。空間にないものや、時間にないもの人は経験することができない。ヒュームの言い分では、人間は経験に基づいて概念を作っているので、人の経験がバラバラである以上、人間間で共有できる絶対的な真理なんてものはないと言うものだった。しかしカントは、経験の受け取り方には人類共通の形式があるので、その共通の形式の中では人類として普遍的な真理を見出すこ、とが可能であると考えた。しかし普遍的な真理とは人間の中での真理であり、世界の真理と言うわけではない。鳥には鳥の、犬には犬の普遍的真理があり、決してホントウノモノ自体の真理にはたどり着けない。だから、真理とは人間によって規定されるものであるとカントは考えた。それまでの哲学者は、心理とは生物間に限らず全てのもので普遍的な真理があると考えていた。つまり人知を超えた真理と言うものは見つけることができないんだ。
  • ヘーゲル。近代哲学を完成させたと言われる大哲学者ヘーゲルヘーゲルは真理とは弁証法と言う手法により少しずつ形作られていくものだと主張した。物事が対立してそれらが互いに高みを目指していくことによって、どんどんと問題を解決していき最後には究極の真理に到達すると言うことだ。
  • キルケゴールヘーゲルの哲学に反論を提示する哲学者がキルケゴールだ。キルケゴールヘーゲルの哲学を、今ここに生きている私という個人を無視した人間味のない哲学であると言った。ヘーゲルの言う弁証法で心理が見つかったとしても、何年後になるか誰が見つけるのか、どんな真理を見つけるのかということがわからないからだ。
  • サルトルサルトルヘーゲルキルケゴールの対立と言う問題についてこう提言した。だったらいっそ究極の真理を求める歴史の進展を、僕たち自身の手で進めてみようじゃないか。そのために人生を賭けてみようじゃないかと。ヘーゲルの哲学を他人事のように捉えないで自分から積極的に参加して人間個人として今を生きる意味を見出したらどうかと言う話だ。サルトルの有名な言葉に人間は自由の刑に処せられていると言うものがある。自由と聞けばなんだか幸せなような気がするが、それぞれが言うにはそうでは無い。何故かと言うと、人は自ら決断することができるからだ。その決断は自由であるが、その決断を下すのであればどんな責任が来ようとも自分が引き受けなければならない。その決断が正しくても正しくなくても。でもサルトルはここで力強い言葉を発する。むしろ、だからこそ、人間は歴史に参加するべきであると主張する。どうせ人は自由の刑に処せられているのだから、どうせなら人類を理想の社会、心理に向かって進展させる歴史と言う大舞台に立ってみたらどうか、というのがサルトルの提案です。
  • レヴィストロース。サルトルの考えに批判をしたのが構造主義の祖と言われるレヴィストロースだ。サルトルというか今までの哲学者の考えでは、人類が目指すべき歴史があると言う発想だが、レヴィストロースは本当に人類が目指すべき歴史なんていうものはあるのかということだ。レヴィストロースは人類学の研究者であり、多くの民族が、未開人を見てきた。西洋の考えでは未開人はまだまだ未熟な、歴史の進化の途中の人間だと捉えていたが、レヴィストロースは多くの民族と触れ合うことで、未開人は西洋人とは違った形態で文化を発展させてきた人類なのだと強く確信するようになった。だから真理を目指して進んでいくと言う西洋人の哲学者は、ただの傲慢な思い込みなのではないかと疑うようになった。
 
 
歴史が弁証法によってより高い次元に成長していき、真理を目指して発展していくという考え。しかし歴史を見れば、世界対戦などを繰り返してたくさんの人が死んでいった。理性や論理なんて意味ないじゃんということを歴史が証明したかのようだった。こうして、歴史は理想の未来へと向かって進んでいるんだと言う近代哲学の説得力がなくなり、そこから現代哲学と呼ばれるものが始まった。現代思想の1つに実用主義と言うものが現れる。簡単に言うと心理かどうかはどうでもよくて、実際の生活に役立つかどうかだけを考えようと言うものである。
 
  • デューイ。この実用主義の代表的な哲学者であるデューイは自らの思想をわかりやすく道具主義と呼んだ。人間の思考とは生きるための道具に過ぎないと言う考えだ。この考えは、全てを道具として何の役に立っているかと言う考え。例えば人を殺したらなぜ悪いのと言う議論はデューイにそれは問題の設定が悪いと言うことで、人を殺したら悪いと言う決め事は何の役に立つの?と道具主義的な問いに変換すると答えを出すことが簡単になると言う。もし人を殺したら悪いと言う決め事がなければ、いつ誰かに殺されるか不安になるだろう。だから人を殺してはいけないと設定し、それが社会の役に立っているんだからすばらしい道具であると、みなすことができる。
  • デリダデリダポスト構造主義呼ばれる現代哲学の旗手である。デリダは西洋文明を今生中心主義であるデリダは西洋文明を音声中心主義であるとして批判した。音声中心主義とは簡単に言えば、話し手を大事にする文化の事だ。そもそも本に書いてある内容を読んでみても、その作者が本当にいいたかったことを理解することはできない。その作者が生きているのであれば尋ねることもできるが、死んでいるのならば誰にもわからない。だから話し手を重視するのではなくて、読み手の解釈を大事にしましょうと言うことをデリダは提案する。
 
☆☆☆
 
 
 

【読書メモ】アドラー心理学実践入門 岸見一郎

岸見一郎さんのアドラー心理学実践入門を読んだのでメモに残したいと思います。
  • アドラーは人間の悩みの全ては対人関係の悩みであると言っている。対人関係の悩みから脱却することができれば、幸福に近づくことができる。
  • アドラーは当時政治改革によって世界を変えていくことを目指しましたが、政治の現実を目の当たりにして政治ではなく、育児と教育によって個人の、人類の救済は可能だと考えました。
  • 怒りに駆られて大声を出すのではなく、大声を出すために起こるのです。不安なので外に出られないのではなく、外に出ないために不安と言う感情を作り出すとアドラーは考えます。目的があって、その目的を達成する手段を考えだす。怒りと言う感情があって怒るのではなく、誰かを自分の言うことを聞かせようとして怒りを使う。
  • 原因論ではなく目的論的に考えてことが大切。何かがあって何かをするのではなく、目的があって何かをする。すべての事は自分で決めている。
  • 今の自分が不幸なのは、過去に原因があるのではない。過去にある原因を変えることができないけど未来にある目的は変えることができる。
  • 人生が複雑なのではなく、私が人生を複雑にしている。そのために幸福に生きることをこんなにしている。人生についての意味付けを変えれば、世界は信じがたいほどシンプルになる。
  • 意味付けというのは人生や世界あるいは自分をどう見るかと言うこと。人は同じ経験をしても、その経験に全く同じ意味付けをする事は無い。
  • 世界や自分についての意味付けが変われば、世界との関わり方、行動までもが変わらざるを得ない。
  • 大切な事は何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかであるとアドラーは言います。
  • 属性付与を受け入れる必要は無い。例えばあなたはいい子ねと親が子供に言う時、その言葉はあなたはいい子でありなさいと言う意味が含まれており、それが子供の性質を決めてしまうことがあるが、これには従わなくて良い。親が悲しむかもしれないけど、その感情は親が自分でなんとかしなければならない感情である。
  • 親であれ社会であれ、人がおしつけてくるイメージに自分は合わせる必要はないという勇気が必要で、そうすることで自由になることができる。また他人の目を気にして自分を実際以上に大きく見せる事は無い。ありのままの自分を見せると言う決心が勇気を作る。
  •  人からの評価に左右されないことは幸福になるために必要だけど、自分がどんな風であり、どう行動するかは他人との関係できまる。
  • 自分を好きになるためには、誰かの役に立っていると思えることが大切。自己犠牲や、自分のことを後回しにするという意味で、とかの人のために働くことが自分にとっての喜びになる。
  • 他人のために行動できないのは、これだけやってあげたのに、という見返りの気持ちが強すぎるから。これが邪魔して人のために何かをすることができなくて、結果として自分が役に立っているという認識が得られず、自分を好きになれない。
  • 自分がしたいことをすることが人の役に立つことになるのがいい。自分がしたいことでも、それによって人から認めてもらおうという気持ちがあればそれは自己満足。
  • アドラーは他の人を仲間であると考えた。仲間であるから共同体感覚を持て、その人に関心を持ち、さらには貢献しよう、協力しようと思える。
  • 他の人に援助を求めること、それが必要なことであれば恥ずかしいことではない。問題は、自分でしなければならず、かつ、できることまで他の人に依存して自分ではしないこと。
  • 仕事の課題、交友の課題、愛の課題、まとめて人生の課題という。
  • アドラーがいう劣等感コンプレックスは、劣等感とは違う。劣等感は自分が劣っているかのように感じることだけど、劣等感コンプレックスは〇〇だから〇〇できないという論理を日常生活の中で多用する。何かを始めようとするたびに、できない理由を探し、始める前からしないと決めている。
  • 人生の課題を解決するためには他者への関心が発達していなければなりません。なぜなら、この人生の課題は対人関係であり、対人関係に何か解決を要する問題が起こったときに、自分は何もしないけれど、他の人が自分のために何かをしてくれると思っている限り、人生の課題が解決されず、そのため人生はいよいよ困難なものになるからです。
  • 自分の過去の経験によって自分の人生が決定されるのではなく、過去の経験に与える意味によって自らの人生を決定していくのである。
  • この世で人に強制できないことがふたつあります。1つは尊敬でもう一つは愛です。私を尊敬しなさい、私を愛しなさいと人に知ることができないのは明らかですが、そうすることが可能だと思っている人もいます。自分で何かをしなければ尊敬されることも愛されることもありません。
  • アドラーはあらゆる関係は対等でなければならないと考えました。大人と子供も対等です。大人と子供が同じだといっているわけではありません。同じではないけれども対等であると考えるのです。
  • 人の課題に踏み込まないと言うことの幸福に生きるために忘れてはいけないことです。対人関係のトラブルはいわば、土足で人の課題に踏み込んだり組み込まれたりするときにおこります。援助を依頼されなければ何もしないことが最善です。もしもどうしても協力したいと思うのであれば、何か私にできることがありますかと言うふうに尋ね、何も言わなければ静観するのが賢明です。
  • 人に嫌われることを恐れて、他者の考えに合わせてしまう人は、自分が正しいと信じたことを主張するという責任を取っていないといえます。他人の評価を気にかけず、人に嫌われることを恐れないことこそ、自由に生きると言うことです。見方を変えれば自分のことを嫌う人がいると言う事は、自分が自由に生きているということの証であり、自由に生きるために支払わなければならない代償だということができます。
 

【読書メモ】植物はなぜ薬を作るのか 斉藤和季

斉藤和季さんの植物はなぜ薬を作るのかを読んだのでメモに残します。 
植物はなぜ薬を作るのか (文春新書)

植物はなぜ薬を作るのか (文春新書)

 

 

  • 植物の成分は、すべての植物あるいは動物にも共通して存在する一次代謝産物とある植物私にしか存在しない二次代謝産物に分けることができる。二次代謝産物は植物種特異的に存在するので、特異的代謝産物あるいは特異的成分、特化代謝産物などとも呼ばれています。薬などに用いられる植物成分は多くの場合この二次代謝産物。
  • チンパンジーでさえ植物を薬として使っている。普段は口にしない苦味の強い植物の液を飲み、体調を回復させる。その植物の液を調べると、寄生虫の産卵を抑制する作用があることが分かった。
  • 生薬とは天然に由来する素材を精製せずに、複数の成分が混じり合ってままで薬として使う。生薬の例としては甘草、桂皮、大黄、麻黄、人参など。
  • 近代薬学はモルヒネの単離から始まった。1804年にアヘンからモルヒネが単離された。その後生薬から単離する研究が盛んになり、抗マラリア成分であるキニーネの単離をはじめとして、ニコチン、アントロピン、コカイン、エフェドリンなどな薬理活性アルカロイドが単離された。
  • 西洋医学では要素還元主義。東洋医学では全体システム主義で薬に対する考え方が違った。しかし近代になると全体システム主義的な東洋医学は、細部を考慮しないものとして批判された。
  • だけど還元主義的な考えでは生物の機能を説明できなくなってきた。だから、東洋医学と西洋医学を組み合わせるように最適化すべき。今では約90%の医師が漢方薬使用。
  • モルヒネは血圧低下や呼吸抑制のような強い毒性作用もあり、動物がケシを大量に摂取した場合は死に至ります。植物であるケシは身を守るための防御物質がモルヒネ
  • サリシンやサリチル酸は、植物の体内で病原菌等の攻撃を受けたときに、その攻撃を植物の全身に伝えると言う役割を担っている。つまり病原菌が来たぞと全身に伝え防御体制を整える。
  • タバコに含まれているニコチンは、成人ではタバコ2から3本、乳幼児は1本で致死量に達してしまう。植物の体内ではニコチンで昆虫や小動物などの捕食者に対する防御物質として使っている。
  • カフェインも成人で一度に10グラム以上摂取すると危険と言われている。これも昆虫に対する防御策。
  • コーヒー豆は木から地面に落ちて芽生えするときに大量のカフェインを周りの土に放出する。すると他の植物の芽生えが阻害される。
  • ポリフェノールには抗酸化作用があり、健康付きの人にとってはたまらない代物です。ポリフェノールがもつ抗酸化作用は、植物の体内でも同じ機能を果たしていると言われています。またポリフェノールは紫外線を吸収するので、植物をストレスから守ります。
  • 植物は抗がん剤のように、細胞の分裂に必須な微小管形成やDNA複製等を阻害して細胞分裂を止める化合物が含まれている。なぜ植物はそのような化合物を持っておきながら自身は平気なのだろうか。
  • 栄養飢餓状態では、外敵への防御物質を分解して栄養に変える。
  • 液胞内に毒性成分を蓄え、細胞内の核やミトコンドリアとは隔離。
  • 液胞の外で毒性成分を生成しても、すぐに糖を結合して毒性をなくして液胞に取り込む。外敵による攻撃があると、糖を外して毒で対抗。
 
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知らない世界が覗けて面白かったです。